田中優子の文化講演会を聴いて――江戸学とは何か アリアドネ・アーカイブスより
田中優子さんの江戸学に関する文化講演会を目覚めながら、妻の枕もとのラジオより漏れる音声で聴きました。田中さんについては随分前より関口宏のサンデーモーニングの不定期なゲストとして、和服の似合う江戸前のおばちゃんとして知っていましたが、法政大学学長であることも知りませんでしたし、彼女の言う江戸学と云う分野がこれほどのものであることも知りませんでした。
なにからお話しようかと思うのですが、まず江戸学、江戸文化ではないのですね。これは彼女が言っていることではありません。彼女の話を聞きながら、彼女は江戸の文化について語っているのではなく、江戸を学問として語っているのだな、と云うことが漠然と分かるのです。また彼女が体現し志向している江戸学とは、江戸の諸学問のことではありません。そういうものは徂徠がくとして、仁斎や本居の国学やその他の諸学問や諸流派として様々に展開されてあったのです。江戸学とは、江戸期に興隆を見た実証的な研究のことではありません。江戸と云う歴史的素材への関わり方を言っているではなく、江戸の文化や文明に向き合うわたくしたちの姿勢を「学」として捉えると云う、学問としての方法のことを言っているのです。
そこで彼女の向き会った江戸の文化のことののですが、それを彼女は「見立て」と「やつし」と云う、歌舞伎の用語で説明します。つまり歌舞伎を見てわたくしなどが荒唐無稽に感じてしまうのは、忠臣蔵の出来事が太平記の世界を借りて語られたりと、また話自体も大きく変容されて不自然で、歌舞伎を見直そうとする現代人はまずここで挫折をするわけですが、それは当代の出来事を公に憚ったと云う合理的な理由よりも、時代と人物に重ねて語られる言語の重層性にこそ江戸文化の特質がある、と云うことになるらしいのです。
「みたて」と「やつし」については専門的な議論もあるようですが、興味がある向きはそちらに任せて、「みたて」とはものに向き合う主体的な動意を、「やつし」とはその結果えられた世界と云う、時系列による因果とわたくしなどは理解するほうが容易です。また、「みたて」と「やつし」の細かい議論よりも、単に言葉や文化の重層性や多元性、と云った方がわたくしたちには解り易いですね。ただ言葉の重層性と云うと、江戸の文化がこの世を仮の世として浮世と名付けた淡白さ、洗練された厭世観の如き洒落物の粋の感じが抜けてしましますね。反対に、ヨーロッパの文明が持っていた言葉の重層性と云うことのなかには、仮にこの世を浮世と思い定める「みたて」の二元論とは異なった、あるいはまた、「やつし」を単に実体の仮の反映と考えるのではなく、固有の実在論Realismが成立する経緯まで語らなければならなくなるわけで、こうしますと田中の江戸学の範疇とはずれてしまいますので、この辺にしておきます。
ところで言葉の重層性!――田中は今度は俳諧に世界をかりて説明しています。有名な”古池や蛙とびこむ水の音”、ここで彼女が雄弁に主張するのは、古来日本では蛙は鳴くものであったし、その背景にある水もまた清き流れを意味した、と言うのですね。つまり芭蕉の名句が意味するものは、日本古典の伝統を踏まえつつそれをひっくり返していることに新しさがある、言い換えればこの句は江戸文学に於ける俳諧のマニュフェスト宣言であった、とこういうことになるわけです。つまり言葉や言語のなかには、それらの意味だけが重要なのではなく、わたくしたちはその言語が持つ言葉の背景であるとか言葉の重層性とかの歴史的、言語論的広がりを、構造として踏まえて使っている、と云うのですね。ここから彼女の学んだ、わたくしたちは意味されたものを理解する以前に構造として理解する、と云う固有の言語観が成立するのです。このことを彼女は、「理解する」と云う現在時制ではなく、「理解してしまっている」という過去完了形の形で話していたのがとても印象に残りました。彼女はこの方法をロラン・バルトと石川淳から学んだと云うのですが、どちらもわたくしはよく知りませんのでこの議論はここまでとさせていただきます。