アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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追憶のローマ・43 ユルスナール『ハドリアヌス帝のの回想』――言語の森、と云う文学の方法について アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』について語られてきた評価や評言について、すぐれた翻訳者・多田智満子の解説も含めて、二つの点でわたくしを納得させなかった。
 歴史小説とは何か、――わが国にはこれと並行して時代小説と云う概念があり、これとの違いについてはここでは触れないことにしておく。仮に歴史小説を『戦争と平和』や『レ・ミゼラブル』のようなものとして捉えるならば、神の座に小説構成上の視点を仮託した作者が、――ユルスナールの評言をかりるならば、「外側から」描いた、と云うことになるだろう。伝記や自叙伝の場合も、――三人称で語るか一人称で語るかの違いに関わらず、それを現在の確立した観点から過去を振り返り、序列付け、整理すると云う意味で同列のものと考えてよいだろう。言い換えれば遠近法的な構図において――近くにあるものは大きく、遠くにあるものは小さく書くと云う約束事において、あるいは構成主義的視点にとって意味が大事なものは大きく、そうでないものはさまでなく云う具合に、遠近法的一元的価値論的に語ると云う意味において、違いはないのである。 (作者よれば、――「十九世紀の考古学者が外側からやったことを、内側からやりなおすこと。」と云うことで何等かの示唆を与えているつもりでいる。また「わたしが『ハドリアヌス帝の回想』を一人称で書くことにしたのは、できるかぎり、たとえわたし自身であれ、すべての媒介なしにすませるためである。」も誤解を呼びやすい方便的表現である。むしろこう書くのがより正しい。――「ハドリアヌスは、わたしよりももっと確実に、もっと微妙に、己が生涯を語り始めた。」あるいは、「イエィツ曰く、『わたしの作品に加筆しながらわたしが修正しているのは自分自身なのだ。』)
 それではそれ以外の語りにはどのような語りの形式が可能となるのであろうか。人称の違いが理由となることができないとするならば、例外的にヘンリー・ジェイムズのように、一人称で語るにせよ三人称で語るにせよ、語りの語尾を閉じる「である」の後に、「・・・、と信じた」と付け加える書き方である。こうすると、作者が故意に嘘を言っている場合もあろうし――19世紀的小説概念からは考えにくいことだが――、あるいは、知らずして誤謬をそれと知らずに読者に伝達していると云う、「批判的な」読み方が、つまりメタテクスト的な読み方が可能となる。しかしジェイムズの方法は一部では高い評価を受けながらも、文学理論の主流とはなりえなかった。
 マルグリット・ユルスナール歴史小説なり伝記としての語りとして採用したのは作者がどの程度自覚的であったかは別として、全く違う発想においてであった。何か語り得る内実なり真実があって、それを如何に語るかと云う方法論ではない。むしろ彼女の念頭にあったのは、ハドリアヌスと云う1800年ほども前の歴史上の人物人物について、一方ではその膨大とも云える時と空間の隔たりにおいて、今日とはもはや文明や文化圏の範囲を著しく乖離した、異質とも云える歴史的世界の彼方に生きた人物を、しかもミレニアム期の大きな歴史的転換期を生きた偉大な人物について語るとはどういうことを意味するのかと云う、方法論的な問であった。つまり、19世紀のリアリズムの定義を信ずるところによれば、ありふれた人間と日常の詳細を「生き生きと」描けば描くほど良いと云うことになるのであるが、ユルスナールが直面していたのはそのような通常のリアリズムの小説作法上の問題ではない。ハドリアヌスについて、あるいは一般的に歴史上の人物を語ると云う姿勢において、無前提に、20世紀に生きる価値観を持ち込んで語ることがそれほど自明な行為ではないと感じたのである。
 ここから次のような重要な評言が出てくる。
 
「ひとりの人間の思想を再創造する最良の方法のひとつは、かれの図書室を再現することである。」
 
 ここから小説を書くために膨大な歴史的あるいは文学的資料を読み解くと云う学者まがいの営為がユルスナールに強いられることになる。ひとりの人間を描くに、伝記的な事実の方からではなくて、当時彼が生きていた世界観、人生観を再現するために彼と彼の生きた時代の文献と資料群を渉猟し、読み解き読みつくし、作者の奔放な想像力でもなく、はたまた事実に拘泥する考古学や実証主義的な方法でもなく、言語を通して、言語の背後にある目に見えない時代の空気を、架空の「ハドリアヌスの図書館」とも云える私的書斎を再現して歴史を再構成しようと云う、途方もない方法なのである。しかもその私的図書館は、かって存在したと云われるアレクサンドリア図書館を模した、離宮ヴィッラ・アドリアーナにあったと伝えられる図書館に類似していればしているほど良いことになる。あるいは今日伝えられるトラヤヌスのマーケットと呼ばれる遺跡とトラヤヌスの記念柱と呼ばれる今日のベネツィア広場に屹立するあたりにかってあったと云われる、ハドリアヌスによってオデオンと呼ばれた図書館と類似していればしているほど良いと云うことになる。
 こういう方法をとる限りにおいて、通常の自然科学のレベルでの意味深げに語られる、何が真実か?と云う問いは当然一義的ではあり得ない。真実は言語によって語られうるのではなく、――なぜなら真実は言語の外に「超越論的に」あるのではなく、言語で語る限りにおいて、言語を透して、言語の中に現れる限りにおいて「真実」であるからである。この意味において、訳者の多田智満子が言うように「ここでは作家の同化力と共感の力によって、どこまでが歴史上のハドリアヌスでどこまでが小説の主人公なのかまったくわからなくなっている」と云う通り一遍の評価は、妥当ではない、と云うことになるだろう。これでは何か言語の外側に、歴史的人物としてのハドリアヌスの「真の」像なり、あるいはユルスナールが単に頭の中に描いたイメージが二つあるように見えてしまうからである。ユルスナールハドリアヌスを描くにあたって、言語の森、と云う手法を採用しようとしている以上、このような読み方は相応しいとは言えない。
 またこれも度々引用される自己弁護めいた自己評言、――
 
「いずれにしても、わたしは若すぎた。四十歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書というものがある。」
 
 これについても、これも人となりとしての作家の人生観的な成熟や、長年月にわたって呻吟しつつ関わった作家としての労苦や営苦を言っているのではなく、膨大な文献と歴史的な資料を渉猟し読み込んで踏まえて書くと云う方法が、青二才では不可能だった、と云う意味にとらえた方がよいだろう。小説を書く方法も様々で、学門や知識、美的経験を踏まえて書くと云う書き方も存在するのである。(わが国では晩年の森鴎外が史伝と云うジャンルで試みたように。)
 わたくしたちはなるべく、作者を崇めたり神秘化して受け取らない方がよいのである。
 
 二番目は、かかるユルスナールの重厚にして広範広大な、博識と知性溢れる文体を通して、何か時代を超越した偉人・賢人の著作に類似したものでもあるかのように語る神秘めかした語り口だろう。彼女の存在が発表当時に於いてさへ、類例のない作家であったことは別にしても。
 『ハドリアヌス帝の回想』は作者自身の有名なあとがきにもあるように、20世紀の初めころに構想に着手し、戦間期を挟んだ戦後の1951年の作家的営為の果てに結実し完成する本書は、作者のアカデミックで時代離れした特異の姿勢にもかかわらず、両大戦を含む戦間期の戦禍がなかったならば書き得なかった小説であることは明らかである。これは歴史上のハドリアヌスを特異な方法論的な吟味を踏まえて書かれた「玄人向き」の文学作品であるのではなく、とりわけ両大戦を通じて作者が受け取った歴史の悲惨、歴史の黙示録的な暗澹とした気分を漂わせた文化文明論であり、アクチュアルな現代史への警鐘であることは明らかである。この小説の現代小説としての特性について言及がなされてこなかったと云うことは実に不思議なことと云わなければならない。
 ここでも作者自身によって神格化されたかのようなギュスターブ・フロベールに関する、諸家によって様々に引用される有名なユルスナールの言及についてもわたくしの側から注釈を加えておく必要がある。曰く――
 
「わたしが1927年ころ、大いに棒線を引きつつ愛読したフロベールの書簡集のなかに見出した、忘れがたい一句――「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった」。わたしの生涯のかなりの期間は、このひとりの人間のみ――しかもすべてとつながりをもつ人間――を定義し、ついで描こうと試みることに費やされた。」
 
 つまり、国家と国家、宗教と宗教、宗派と宗派のイデオロギーの粋を介した半ば民族と種族の殺戮の歴史であった西洋の歴史を総括しながら、かって神なき時代があったこと、人間は宗教なしでも生き得た時代があったこと、その時代を「比類なき時期」と書いているのである。
 こうして人間ハドリアヌスを描くユルスナールの作家としての営為が始まる。人間とは、本来は理念的存在としては神よりも無限定でいっそう自由な存在であり、その自由が歴史に具現・具象する過程では様々な形における限定を受ける。平和や理想は美しいけれども、悪意は常に理想よりは悪賢く具体的でアクチュアルである、平和とは所詮、絶えざる戦争と争いと諍いの合間のつかの間の休息であるか臨時の休戦機関であるに過ぎない。しかしだからと云って、有限者としての人間は人類を見舞うだろう不運や不幸、悲劇に対して、所詮は悪のシナリオの前に善意は敗北し滅びるものであるにしても、――ローマ帝国が結局は滅んだように――それを少しでも先延ばしにして、歴史を生きぬいた一回性としての己の実存のあり方の中に少なからぬ満足を見出す。それが暗澹たる運命と対峙するストア的な意思と諦念なのか、それとも皇帝としてなした自分の事業は、それでも程々に良いものであったとして舞台を去っていくハドリアヌスの微笑みが意味するものであるのか。「親愛なるマルクスよ・・・・・」で始まるこの小説は、ストア派人皇マルクス・アウレリウスに向けて語られた自省録のようにも思われるが、二人の哲人皇帝が対峙し語った歴史的対話篇とも読むことができる。「ハドリアヌス帝の回想」を通してユルスナールが語ったことは以上である。現代作家としてのマルグリット・ユルスナールの倫理性については自明視されていたのか、従来殆ど語られてはこなかったのである。奇異なことと云わなばならない。翻って考えるに、わたくしたちの人生においても、小さい幸福や善意を軽く扱ってはならないのである、ということがこの物語から聞こえてくるもう一つのメッセージである。
 
  最後にもう一つ二つ「ユルスナール語録」?のなかから引用してみる。
 
「わたしはじきに、自分が偉大な人物の生涯を書いているのだと気が付いた。それからは真実へのいっそうの敬意、いっそうの注意、そしてわたしの側にはいっそうの沈黙が生じた。」
 
「ヴィラ・アドリアーナでの幾朝か。オリンピエイオンの回りを囲む小さなカフェで過ごした夜また夜。ギリシアの海を頻々と往来したこと。小アジアの旅路。わたしのものであるこれらの思い出を役立たせるためには、それらが紀元二世紀と同じくらいわたしから遠ざかったものとならなければならなかった。」
 
 ユルスナールを初めて読んだ半世紀も前のころ、当時若者の町として言われていた新宿の雑踏の流れを肩で身を切るように身を任せながら、不確かに揺蕩う遠い異国の面影を仰ぐように視線を群衆の彼方にさ迷わせた。二十歳前のわたくしはイオニア海からエーゲ海、さらには色あせた黄金のセピア色に染まった小アジアの津々浦々陰と、吹かれるがままに放浪する人物の薄墨色の影を秘かに想って想像し、その友綱を失って筏に乗って漂流する自由な精神、女だてらの高貴なロマンティシズムに憧れたものである。とはいえ、思い出が紀元二世紀と同じまでに遠ざかったものになるとは、その含意を、欧州を襲った世紀の悲劇を、ひとりの人間を巻き込むことになる集合的ディアスポラと云う背後の物語を想像することすらできないでいた、そして孤独と云うことの意味も。学園紛争が始まる前の、不思議な静謐さに支配された、予兆に満ちたある日ある時の風景である。