アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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野上弥生子 ”秀吉と利休” アリアドネ・アーカイブスより

野上弥生子 ”秀吉と利休”

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 政治と文学と云えば古い話になるが、世俗的世界と精神的世界の対立と云えばいつの世にも普遍的な話題である。先日、臼杵の城下町を散策した折に、野上弥生子歴史小説、 ”秀吉と利休”を思い出して読むことにした。
 
 歴史性とフィクショナルなエピソードを繋げて、それなりの歴史小説として仕上がっている。特に、秀吉との対立が顕在化する ”18” 以降がよい。どのようにして利休が追い詰められていいったかが無理なく描かれている。利休の死の前には山上宗二の死があり、二つの相似形の死を語ることにおいて構成としても揺るぎない。
 
 利休も山上宗二茶の湯の崇高な理念ゆえに死んだのではない。宗二はいちげんの客の人間的な信頼関係ゆえに死んでいく。利休は、己が政治的影響力の過大評価と、冷徹な政治の力学が生んだ甘い現状認識の落差の間で死んでいく。茶の湯と云う名の芸の神髄が、政治の力学と抱き合わせである限りにおいて、政治の敗北を芸術の崇高性などという御題目とすり替えてはならないのだ。政治の醜さを一面的に描き、それに拮抗するかのようにことさら茶の湯の精神性に最後は頼らざるを得なかった人間としての弱さを描いていて哀切である。芸術の殉教者としての死と云うよりも、無様と云ってよい、余りにも人間らしい死に方であった。
 
 茶の湯とは自服に極まる自己省察の極みであるとともに、自己と他者との関係性と共同性を、ある種の親和性のもとに理解する術である。元来から、侘び茶などの論理がある筈がないのである。宴会が果てて客との離別の情を纏綿としてひきずったまま一人対峙する静寂の中の窯の唸りと、黄金の茶室や北野や醍醐の豪放な茶会とが別のものであるはずがないのである。茶の湯をかかるものとして達観したうえは如何なる責任の取りようがありえたと云うのか。秀吉や世評の自分に対する過大評価と自己認識のずれの中に生きながら、人間としての弱さの中に”芸術の弧高さ”などという戯言を描かなかった点にこの小説のリアリティと云うものがある。単なる偉人伝説にしてしまわなかったところにこの小説の卓越性がある。
 
 野上の歴史小説としての賛辞は沢山あるので、最後に辛口の批評をしておこう。
 利休の人間像はともかくとして、彼を取り巻く、実在の人物たちの人間像が概して類形性を脱していない。実在の人物であるがゆえに自由に造形できなかったのは分かるが、秀吉にしても三成にしても人間として権力者としての素顔の多層性が描かれているとは言い難い。
 反対に創作上自由に造形できたはずの三男の紀三郎にしても、父親への距離の取り方や、ドラマへの関わり方が淡白で、利休のドラマに絡む十分に魅力的な造形性に練り上げられているとは言い難い。
 利休側の、彼を取り巻く人間像の弱さやいい加減さについても、評価を加える作者の姿勢は曖昧で、距離の取り方も微妙である。
 総じて、あの時代であるからこその固有の宿命と云うか、固有さを帯びた歴史性としての人間像を描く人間の厚みや重層性において、やや印象が淡いと云うべきか。茶人としての卓越性と人間としての凡庸さや弱さの関係が十分に練り上げられて入るとは言えないのだ。