アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「タイタス・アンドロニカス」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 このあと、ざっと粗筋を紹介しますが、これはシェイクスピアというより、まるで歌舞伎ですね。ただ、私たち市民社会に生きるものが心して鑑がみるに、荒唐無稽なことが必ずしも非現実と云えない場合がある、と云うことです。一つは時代の価値観が大きく揺らぎ時代と時代の境目にあるとき、もう一つは正常者と狂人の世界の間を生きる境界症と呼ばれる人たちの精神的な病の事例です。
 
 ローマ時代の後期、生涯を蛮族侵攻を阻止するため夷狄の地に過ごした有力な武将タイタス・アンドロニカスは幾度かのゴート族との争いに勝利して凱旋する。戦利品としてゴート族の女王タモーラと息子たちを伴うが、その一人(長男)はローマの凱旋の儀式に則って生贄に供される。母親タモーラはこのことを根に持ってアンドロニカスの復讐に暗い情熱を燃やす。
 
 当時、サターニアスとパシエーナスと云う先帝の兄弟二人が皇位をめぐって凌ぎを競っていた。これに凱旋将軍タイタス・アンドロニカスも加わることで事態は混沌としてきた。ここから分かるのは長子相続の原則が揺らぎ始めたこと、血統よりも実力者が皇帝に推挙される可能性がある社会に移行しつつあったことだろう。
 新皇帝の誕生は、タイタスの譲歩によってとりあえず長子相続の原則が保たれてサターナイナスの新皇帝誕生が認められて落ち着く。
 
 タモーラが最初にしたことは色香によって、弟や凱旋将軍タイタスを退けて新皇帝に推挙されたばかりの兄サターナイナスに取り入ることであった。第二にしたことは実弟であるパシエーナスを狩りにおびき出して殺害し、かつ彼の婚約者であったタイタスの愛娘ラヴィニアをこの上ない残酷な復讐の犠牲、つまり二人の息子たちの情欲に任せるまま、森で強姦したうえ両手を切断し、しゃべることができないように舌を切り取ると云う残忍な方法であった。
 三番目にタモーラがやったことはパシエース殺害の罪をタイタスの子供たちに着せ、かつ彼らの助命と引き換えにタイタスの片腕を切断し新皇帝に献じさせると云う提案であった。親子の情ゆえタイタスはこの処断に応じるのだが、約束は反故にされ親子の情愛は散々に茶化され嘲笑される。タイタスの長子のリューシアスはガリアの地に国外追放の刑に処せられる。
 以上のアンドロニカス家に向けられた陰謀はタモーラと、その愛人ムーア人アーロンの巧んだことであった。アーロンとは絶対的な根源悪、『オセロ』のイアーゴーのような存在なのである。ここでは何ゆえに・・・と問うことは不要である。人間の嫉妬と羨望と劣等感がもたらした癒しがたい人類全体に向けられた憎しみの象徴として理解しておけばよいだろう。
 
 事の破綻はタモーラが生んだ赤子が皮膚の色から、イアーゴーの子供であるらしいことから、その子供の処分をめぐってタモーラの陣営側に破綻が持ち込まれることから始まる。タモーラは赤子の処分を乳母を通じてアーロンに委託するのだが、アーロンは心変わりして皇后の愛人たることよりも自らが初めて授かった子供の延命を願って逐電する。逐電した場所が運悪くローマへの進軍するリューシアスとゴート人の連合軍の陣営であったために捕われたアーロンは全ての悪事をリューシアスの前に自白する。しかしこの自白が変わっているのは、悔悛の情を一切晒さず、悪は根源悪のままに悪の理念が確信をもって語られる点にある。ここの具体的な対象に向けられた憎しみと云うよりも、世界全体を破壊したいと云う悪の無限なる意志を感じて、これは大衆社会ファシズムのことではないかと思わされた。
 
 ここからタイタスとリューシアスによる目には目をの復讐が始まる。タイタスは策略によってラヴィニア強姦の罪としてタモーラの二人の息子を殺害し、彼らの遺体を焼いた骨肉をパイとして、皇帝夫妻を呼んだ政治的和僕のための会議の食卓に乗せ、タモーラに食させたうえでそれを告げ彼女を殺害する。返す刀でこれ以上生かすに忍びないラヴィニアを自らの出で絞殺する。そしてそのタイタスもサターニアスの手で殺され、サターニアスもリューシアスによって殺され、殺戮の連鎖の中でこの劇は終わる。
 
 最後に大悪党のムーア人アーロンはどうなったか。新たに皇帝に推挙されたリューシアスの手で、簡単には死ねない下半身生き埋めの餓死の刑に処せられて苦しみながら緩慢に自らの死を死ぬ、一応勧善懲悪の形で終わる。
 ムーア人とかイスラム教徒は、彼ら西洋人の場合、単なる反価値、人種に対する偏見であると云うよりも、かれら西洋文化に内在する矛盾の表れに過ぎないのだから、自作自演の悪矛盾とまで云うのは言い過ぎだろうか。9・11以降の時間の流れは、かかる荒唐無稽な話を非現実とは言わせない時代に入ったのである。
 西洋文化の本質が、悪を根源悪として自らの外部にあるものとして想定する限り、彼らが正義の理念を声高に論じる限り、悪はまるで彼らの存在の影のように付き纏い、まるで核物質のように汚染を拡大させるのだ。キリスト教以前の時代の悪しき時代の過去の物語として読むのは良い。しかしキリスト教による愛の概念をもってしてもより非情な形で拡大されることはあれ、愛が歴史を癒すことはついになかったのである。キリスト教の愛の概念のどこに間違いがあったのだろうか。