アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「ウィンザーの陽気な女房たち」 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 『恋の骨折り損』も私を困惑させたが『ウィンザーの陽気な女房たち』もまた、違った意味で困惑させる。この簡素なドタバタ劇に、教訓や文学的な深みがあるのか。シェイクスピアでなかったら、投げ出していたであろう。
 
 余りにも有名な伝説?上の人物フォールススタッフにしても、その巨体・肥満に匹敵するほど大度の魅力的な人物であるのかどうか。劇中彼がさんざん陽気な女房たちの策謀に翻弄され道化もどきの笑と涙を演出しようと、その敵役であるフォードの如何にも小市民じみた嫉妬深さと愚かさの方が魅力的に感じるのは、現代的視点ゆえの偏りゆえなのだろうか。まあ、疑心暗鬼と嫉妬の塊であるこの小男は、最後に初めて人間的に笑うことになるのだが。
 
 悪漢フォールスタッフが散々に懲らしめられるお話しと云うよりも、女どもに三度も見え透いた嘘に騙される好人物の物語としか思えない。確か『ヘンリー四世』では、慣習や道徳的な規範に反抗するだけでなく、国家や王権にも徹底的に盾をつく無頼漢としての反面が描かれていた筈だ。世を忍ぶ貴人としてのハル皇子の友人としての活躍には、なにやらすねもの時代の若き日の信長をも思わせるものがあり、王権と云うものが確立せず、大貴族もまた影響力を保持しつつこれに境界権力や市民社会の勃興をも控えて混沌として予断を許さない時代における、イギリス地方のジェントリーや郷士階級の無視しえない影響力とその消長の一齣を象徴させるものであったのかもしれない。実際に、信長の覇権主義が明瞭に形をなすようにハル皇子が若き日の放蕩を清算し王権の確立に向かうようになると、まるでついでのようにフォールススタッフの死が伝えられ、いっそ拍子抜けするような感じなのだ。歴史の無常と悲哀を感じさせられる時である。
 
 『ウィンザーの陽気な女房たち』のフォールススタッフはそうした悲哀を感じさせるようなところもない。そして女房たちが口々に言うように大それた悪漢であるはずもない。人間としての大きさも、ましてや魅力も感じられない。ちょうど『ドン・ジョバンニ』がそうであったように、歴史を退場するものには悲哀と色好みの伝説と云う惜別と葬送送別の辞が相応しいのだが、人間としての威厳すら奪われたこの作の人物は、『ドン・キホーテ』のなれの果ての敗残の姿なのである。フォールススタッフが懲罰を受けるきっかけが市民社会の道徳に抵触することであったように、この劇もまた一種のイデオロギー劇なのである。
 
 それにしてもウィンザーの陽気な"女房達Wives"。wifeたち、これを「女房」と訳したのではいかにも彼女たちの活力や色気旺盛なところが伝わらない。また、これを「人妻」としたのでは如何にも日本風の歪んだ表現を与えてしまう。いっそ悪訳を承知で「既婚女性たち」と紋切り型に返したら笑われるでしょうか。