アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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何かが起こりつつある!――日本の家族で! アリアドネ・アーカイブスより

何かが起こりつつある!――日本の家族で!
2014-08-18 12:19:22
テーマ:精神病理と現象学



 先日武田百合子氏の『富士日記』について触れた折に、秘められた動機としての、世界創造者なり家庭再建の意志の如きものを切実な悲願として認めたのであった。他方、泰淳氏は平家ではないけれども、見るべきほどのものは見つ、の心境ではなかったろうか。戦時下の体験と、戦後の茫洋として取り留めのない時間を繋ぐものを見出せなかったのである。それを氏に教えたのは紆余変転の家族の離散体験の果てにカフェの女給さんをしていた百合子氏ではなかったのではなかろうか、と云うのが当方の想像である。
 百合子氏の悲願には、一度死を決意したものに固有の必死さがある。彼女は、当時流行りのボーヴォワールのような女性の生き方について思案を巡らすと云うには程遠い、贅沢な願いでしかなかったのだが、そうした最先端の思想を意識することもなく、ためらうことなく妻であること母であることを女性であることに優先させた、その時代離れした必死さがわたしなどを感激させるのである。
 皮肉で云うのではない、かかる古風さが今の世に於いてもなお多くの支持を集めるということの中に、わたしは世相と云うものを感じるのである。

 BSテレビでもう随分前から寅さんシリーズを遣っている。真面目にみるに値しないと思っているので、それでいて好きなので何時も拾い読みのように思い出したら見ている。その四十何番目だかに『寅さんの休日』と云うのがあって、妹夫婦に息子が一人いて、みつおと云うのだが、その彼がいまや青年になっていて、恋や人間の幸せについて考える、まるで主人公のような役割を演じているので、寅さん映画も変わったなと思った。あるいは、既に体調を崩していた渥美清に対するスタッフ側の思いやりであったのかもしれない。
 もう一つ感心したのが岐阜とかでホステスをしている光男の女友達の母親を演じている夏木マリと云う女優さんが、映画の中で若い恋人と失踪した夫を追って九州は日田まで、娘とみつおのカップルを追って寅さんに連れられた珍道中を展開する場面がある。
 もはやこの映画では、おまえは馬鹿だなあ!とは誰も寅さんの事を言わない。杖立と思しき日田近郊の山の湯に四人で泊まって、女中の前で家族四人のふりをする場面がある。つまり寅さんや山田洋次には家庭の崩壊と云う目に見えない過去があったことがこの映画で分かる仕組みになっているようだ。
 感心したのはこのことではなくて、演ずる夏木マリと云う女優さん、九州で幸せになっている元夫の現在を娘から聴いて、そっとしとくほかはないと娘から逆に説得されて、思わずうめき声のような衝撃音を体から発するのだが、人間が本当に苦しむときは体はこんな「音」を発するものなのかと感慨深かった。人間の心が壊れる瞬間とはこう云うものなのだろうな、と思った。寅さんも無言で眠れる一夜を明かす。他のシリーズのように気の利いた台詞をでも言ってほしいと思うのだが、見守っているほかはないような次元もあるのだなと、わたしもみつお青年も思ったことであった。
 しあわせとは何だろうか、とみつお青年は問う、――みんなから馬鹿にされているけれども本当は一番の幸せ者かも知れないと柴又の和尚さんから言われる車寅次郎は本当にしあわせなのであろうか。九州の片田舎に生き延びて、新しい生き方を学びつつあるあの夫は幸せなのだろうか。そして夫に裏切られたホステス稼業の元妻は、むろんしあわせではない。その色町と云う苦界に生きる母親に寅次郎は「奥様」と云う尊称を賜るのだが、まるで寅さんの遺言のようにも聞こえたのであった。
 
 しんみりとしてしまったが、こんなことを書くはずではなかった。日本の家族に何かが起こり始めていること、であった。二つの事件、一つは九州の八女と云う町で起きた、リサイクルショップのアルバイトの使用人たちに起きた出来事、もう一つは押し入れの中から女子生徒の遺体が発見された、ともに謎のような事件である。
 以前も、というか戦前に於いても今日云うような形での理想的な過程と云うのはなかったに違いない。家庭生活の歪や変容は、地域社会の疑似家族観と云う思想や、学校や職場の中で疑似的に再現する形で半ば修復の努力がなされていたとは云えるだろう。地域の子供たちが生かされてあった近隣の上下関係がそのまま学校社会に持ち上がって、そこでも疑似的な家族関係は再生されたかもしれない。学校社会からバトンタッチする形で職場環境に於いてもかかる関係は模索されたのかもしれない。今そうした関係が失われて、受け皿となるべき環境的世界が失われて、ここに異様な、カルトのような世界が出現する。
 もしトラウマのようなものが過去にあって、その関係性に呪縛されて生きることが、生きられてある唯一の時間であったとするならば、それを客観的に評価する以前の、つまり意識的世界以前の自然性に、いかに人は立ち向かえると云うのだろうか。そうした言語の境界線上にあるような、奇妙に呪縛的で神秘的な、それでいて原始的で血の匂いのする不吉さのようなものを感じさせる事件がこのとこと、とびとびにではあるが、わたしたちの目に飛び込んでくるようである。

 日本人が正義と云う事を口にしなくなってから久しく、今日に於いてもいじめや人間関係の荒廃からくる事件が起きる度に、教育者をはじめとする大多数の日本人は、思いやりや優しい心があれば万事防げるような話をする。
 最近の、カルトじみた一連の陰湿な事件の背景にあるものは、日本人の大多数と教育者が口を大にして唱導しつつあるやさしさ教育、思いやりの心構えと云うものが、悪と云うものとの積極的関わりを隠避させ、悪いものはないものにしてしまおうと云う性善説が、現実に悪と云うものに直面した時の無防備さと云うものと関連がありはしまいかと思うのである。
 シェイクスピアの『オセロ―』に出てくるイアゴーも最初は、下手に出て思いやり路線で登場してくる。イヤゴーはどす黒い嫉妬心を内面に隠し、高貴なオセロー夫妻に近づいてくる。人は正しくある時、あるいは悪が完全に排除された形での性善説の世界の信奉者となったとき、いかなる形で、補償的行為として悪そのものを呼び込むかと云う問題をシェイクスピアは扱っているように思われる。イアゴーが悪人であると云うよりも、オセローとデズデモーナの悪を媒介としない完全無垢さが、反面的に悪を呼び込んでしまうのである。
 悪と習合しない、あるいは悪に染められない教育は、淑女デズデモーナの場合は上流階級の深窓の姫君性にあった。半面、人種差別の中で生きたオセローは、上流社会で伍して生きるためには白人社会以上の完璧無垢の正しさと云うものが必要であった。それが彼が異質な社会の中でアイデンティティを自他ともに確保させる手段であったのだから。そしていまやその手段であったのものが、履歴を拭い去られ悪と云うものを観念としてすら想像することが出来なくなったとき、カルト的な雰囲気に抗えるようなものは何一つ残されてはいなかった、ということはできないだろうか。
 いじめやそれに類する事件が起きる度に口にされる、優しき心、思いやりの教育とは何であろうか。むしろ悪と遭遇したときの心構えをこそ教えるべきではないのか。思いやりややさしさ教育などが子供たちを救うはずがない。子供たちが我が身を守るにはいまだしの感じがあるとすれば、身近にいる者の誰かが勇気ある行動をすべきなのである。
 勇気!古代ギリシア社会での最大の美徳をわたしたちが忘れて久しい。