アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西洋舞台演劇史素描・4 アリアドネ・アーカイブスより

西洋舞台演劇史素描・4

2011-08-01 22:25:47

テーマ:映画と演劇

 5.愛のシェイクスピア(1)

 

先日、大学院の授業で講師の方から世田谷パブリックシアターの活動をご紹介していただいた中に、シェイクスピアの”一二夜”の舞台映像があった。松たか子さんの”十二夜”。自在に舞台と観客席を微妙に配置変換できる最新の施設の一端を知ることが出来た。

  プロセニアムアーチ!――通常自明視されている舞台と観客席の間の”額縁”が取り払われ、観客席と融合するような形で半円形の舞台が観客側にセリ出ている。舞台と観客席の段差は小さく、弾き語りが舞台右手の隅っこで舞台でも観客でもない中間性を維持している。そして驚くべきことに幕間においても弾き語りはおしゃべりを止めることなく、また大道芸人風のパフォーマンスを休むことなく繰り広げ、観客と聴衆の笑を誘ったことです。また幕間と幕間の間も中断されることのない連続性を保ちえたことである。

  つまり、観客席の方から見ると、劇が幕間で完全に終わっているのかどうかという確信が与えられないのです。ここでは通常の見る者-見られる者の関係が不動のものではなくなっていたのである。

  この講義では講義の主旨が音響を主とした舞台装置の解説にあったため、シェイクスピア劇の紹介は断片的なものに止まらざるを得なかった。しかし飛び飛びの画像の紹介からだけでも”十二夜”は十分に感動的で、シェイクスピアの喜劇と云うものに初めて眼を開かれた瞬間であった。

  そこで帰宅すると書棚に積んである我が家の白水のシェイクスピア全集を探してみたが、何分二十年以上も前に部分的に買いそろえた蔵書には悲劇や史劇の類が多く、該当するものがなく、やむなく下記のチャールズ・ラムの子供向けの本を二冊、ようやく探し出すことが出来た。

  その中に”十二夜”は含まれていた。少年少女向きの物語本に書き換えた児童本で概要を読んだだけでも感動した。結局両方の本を始めから終りまで読んでしまい、改めてシェイクスピアの全体像に感嘆し、さらに余韻を追うように二度、三度と続けて読んでしまう結果になった。

  ここに、四代悲劇と呼ばれる――”ハムレット”・”リア王”・”マクベス”・”オセロ”のシェイクスピアとは全く違った人物像が浮かび上がって来たのである。

 

シェイクスピア四代悲劇とは厳粛で無残で冷酷な、救いのない悲劇である。神も仏もなくある種の強烈な敗北感と無常観で終わるのであるが、それゆえにこそ人間の英雄的な行為を伝えていて、悲劇ならではのシェイクスピアの人間賛歌が込められているともいえる。

いっぽう、”十二夜”を始めとする喜劇群にはもう一人のシェイクスピアがいる。取りわけ忍従を偲ぶ女性像の創出においては複数の戯曲群に共通するものがあって、悲劇以上の作者の個性的な息遣いや気配、そのままの臨場感をすら舞台の背後に感じることが出来る。かかる意味では喜劇の現代性は悲劇の峻厳さとは際立った対照を示している。

その典型が“十二夜”のバイオラではなかろうか。海難事故で離ればなれになった双子の兄を探す妹の話を縦軸に据えながら、横軸にヒロイン・バイオラの片思いの話が進行し、ひとつの織物を紡ぎ終えるように、めでたしで終わるのであるが、喜劇固有の女性が男性に変装するシェイクスピア劇固有の種々の取り違え劇が笑とユーモアを生じ、その結果、泣き笑いとしかいえないほどの深い人生の真実に到達するのである。

喜劇”冬物語”のハーマイオニの場合はもっと苦渋に満ちたものである。一言で要約すれば一方的に王の誤解に晒される王妃の受難劇、――これは悲劇”オセロ”のデズデモーナに大変似たシチュエーションなのであるが、シェイクスピアが悲劇、喜劇を使い分けた天才であったことの重要な証左になるのではなかろうか。

 デズデモーナもこのハーマイオニも自らに振りかかった悲劇をまるで自然災難としての受難として受け止めるかのような高貴さがある。この世の中で生じた出来事が必ずしもこの世の中では有意味なもとして完結しえるわけではないということ、人生の短さと真実の時間幅の非対称性についての深く高い洞察が、シェイクスピアの女性には共通してあるようだ。中途半端なパッピーエンドでは人間性への侮蔑にしかならないことをシェイクスピアの人間洞察はかなり正確に捉えていたと云えるのである。

喜劇”冬物語”と悲劇”オセロ”の類似性は高貴な人間が如何にして下劣な人間性をむき出しにした人物像に転落するかという人生の深い真実、滑稽でもあれば悲劇的でもある固有な人生観を、とりわけ男性像において象徴的に捉えたことにおいても共通している。かかる意味では、忍従する女性像ジューリアと下劣な意思によって下等な人間に転落してしまう高貴な青年の危うさを描いた喜劇”ヴェローナの二紳士”は、プローティーウスという男性像において男心の変わりやすさと一貫性のなさを、半面喜劇、半面悲劇と云う意味において共に描き出しえている点において、これもまた傑作と考えて良いではなかろうか。

かく考えるならば、これは従来の四代悲劇論と呼ばれたものについてもその人間解釈において大幅な改変が生じるものであるかも知れない。例えば悲劇”ハムレット”における悪王クローディアスは単に血も涙もなく一方的にハムレットによって誅殺されるだけの全く同情に値しない人間であるのかどうか。むしろ感情の起伏の激しさゆえに自らを悲劇に追いこんでしまうリア王マクベスと共通するものがあるのではないかとも思わせるのである。この性格的な弱点は王子ハムレットにこそ言いえることであって、人を殺めても良心の呵責一つ覚えない彼の異常性格は正義と云う名のイデオロギーの持つ真の恐ろしさを伝えているという意味で極めて現代的であり、中世的人間像とは異なった性格の人間像を創出させたという意味で、従来のハムレット観は根本的に改変される必要があるのではないかとすら思えるのである。

  シェイクスピアの戯曲はかかる固有な男性観、女性観を踏まえて許しの物語を展開しているともいえる。それにしても喜劇と呼ばれる一連の作品群に通低する彼固有の女性像をシェイクスピアは如何にして、誰から学んだのであろうか。このような女性像を創出出来る人間とは半端な人生訓に満足することなき深い洞察と、長い人生経験にさ支えられることなしにはあり得ないという気がする。何よりもまた一朝一夕にはいかない成熟した人間の見方なしにはあり得ないという気がするのである。

複数の戯曲を通じて共通するここまでの女性像を描き得るとは、実際にモデルになる人物をシェイクスピア自身が見知っていたという気がしてならないのです。それほどシェイクスピアの喜劇と呼ばれるものには背後に作者のしっかりとした気配と実在とを感じることが出来るという意味で、もはやシェイクスピア伝説と云う名で神秘化して語ることは出来ないという気がするのである。

シェイクスピア悲劇は作者の存在が感じられないほどの作品の独立性と自体性を持った一個の比類なき傑作と言ってよい。一方喜劇はその背後にまごうことなき一人の人物の気配と確かな実在を感じさせるという意味で、シェイクスピア文学・解釈の画期をなす存在とまで云えると思うのである。