アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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プラトンと国家――佐々木毅”プラトンの呪縛” アリアドネ・アーカイブスより

 
近代国家論の専門家によるプラトンの今世紀における受容の歴史である。言葉を変えれば”受容”の歴史といった品降る表現でも可能である。政治は垢にまみれ、猥雑で、時にはおぞましくすらある。この本に書かれていることだが1914年の第一次世界大戦のころを境に何が変わったか。つい十数年前まで、ドレフェス事件がユダヤ人に係わるものとして、あるいはロシアのユダヤ人に対する迫害が話題になったほどであるという。それから数十年もすれば何百万人ものユダヤの民が罪なき命を失うことになる運命を私たちは知っている。さて、問題をドイツに限ると、この時代は当時のヨーロッパで固有の読書階級と呼ばれたものが没落していく過程でもあったという。イギリスではジェントルマンの階級がこれに該当するのだろうか。
 
このような分岐点としての重要な役割を果たすのがこの著書でも取り上げられ、しばしば言及してきたマックス・ウェーバーであろう。彼の価値自由(価値と事実の分離)の考え方はドイツにおける読書会全体の崩壊現象として現れた。そして古い価値に依存した代表者こそ、あのフリードリッヒ・ニーチェの敵対者・ヴィラモーヴィツであるらしい。
 
今日日本ではニーチェの敵対者としてのみ記憶されている学者の存在が、この本を読むとなかなかの人間であったことが理解できる。かれもまた20世紀に続くドイツ読書階級の崩壊をある種の学的理念と価値の信奉において、信念をもって主張したのだった。彼の前には科学的な文献的な手法があり、かれはもはやプラトン理解がアカデミックな傍観者的な態度ではありえないと主張したのである。ここから旧価値を保守しようつする姿勢がニーチェへの度を越した反感となって現れたのだろう。
 
この本を読むことで、たとえば私たちはイギリス労働党のクロスマンのプラトンの理解の仕方を知る。彼の”今日のプラトン”という本は、もしタイムトンネルというものがあって、プラトンが20世紀の西洋諸国を旅したら、という現代の文明批評である。かれのプラトン感は個性的でもあればイギリス人らしくウイットに富んだものでもある。曰く――”もし、プラトンにわれわれが反対するとすれば、それは彼が人間性の分析において余りにリアリスティックであるからである。”
 
アテネ直接民主制とイギリスの代議制民主制の違いから説き起こして、プラトンによれば後者は自治の技術ではなく巧妙に仕組まれた統治の技術なのである。大衆の平等や利益よりも”法と秩序”に偽装された”地位”の保全固執した体制なのである。
 
この仮想見聞録をより魅力的にしているのは、プラトンも、――そしてイギリスの歴史も、ある意味で本来の民主性がもつ恐るべき力、革命的な役割を経験し、その反省と断念の上に成り立っていたというクロスマンの記述の仕方による。アテネの民主性がどのような形で崩壊したか、その経緯を踏まえながら”高貴な嘘”によって人民を韜晦しジェントリーの地位を教育の手段によって保全するイギリス型民主主義は、本来の民主主義の脅威に対する最大の防衛、”よりましな”民主制のあり方なのである。この両者(イギリス人とプラトン)の認識が痛切なのは、私たちが20世紀における政治的失敗の諸経験の宝庫とも図書館的規模を持つともいえる歴史的諸実験の膨大さ、という事態を経ている故の反省であるという点なのである。
 
次ににプラトンはロシアを訪問し、計画経済とスターリンによる”哲人政治”の現状を認識することになる。プラトンはここに自分の見果てぬ夢がほぼ達成された現状をみる。ある意味でプラトンの思想以上の徹底性をもって20世紀の歴史は彼の理想を実現したことになる。ヒトラー毛沢東が哲人の風貌を演じ続けたのは言うまでもない。
 
その他、プラトン移管する20世紀の諸文献を渉猟し紹介する著者の博学と学識には敬意を評するばかりである。この本を読んで何を感じたかと言えば、プラトン批判と呼ばれるものが有名なホパーの”開かれた社会とその敵”に代表されるような底の浅い見解・プラトン理解であったがために与えた誤解、ホパーの下らなさを指摘するだけでプラトン思想のもつ問題性を救出できたと、われわれ読書界のがわが思い込んでしまったことである。
 
プラトン思想の危険性は言うまでもなくホパーに代表される自由か独裁かという二者択一の問題に単純化される問題ではない。かといってその皮相さを指摘することでアカデミックとしてのプラトンは救出することができても、プラトン思想の持つ政治性を救出できるわけでもない。それは結局プラトンとは書かれたものが全てではないからだ。近代の文献的方法は実証的に、書かれた文献や資料にのみ依存し、それ以外の思想を科学的ならぬ逸脱として排除してきたものである。しかし思想とは、本来歴史的事象や残された文献のみに係わるものだと言う非妥協的な断定こそ、非科学的なものでもあれば非学問的な行為でもあれば考え方でもある。
 
最後に著者である佐々木は、20世紀のプラトン哲人政治の実現形態であるファシズムスターリニズム等の諸形態を通じて、その底に顕著に顕在化されたものをプラトンの形姿を借りて一言で要約する。それは根深い大衆の蔑視であり、人間存在の規定と定義において、動物性においてまで一元化された指標、評価とするものであった、と。人間性をその富や豊かさにおいてではなく、何のための価値であり豊かさであるかを問わないならば人類の行く手には大きな陥穽が待ち受けることになる。プラトンはそれを二千数百年前にアテネの民主主義の成熟と爛熟の中から顕彰し警告した。
 
そうすると、これにはイギリスの代議員製民主制の、すなわち”高貴な嘘”に準拠する体制もまた含まれることになる。生産と消費という発想で考える限り、20世紀の諸経験は生産を重点的に局限化すればファシズムや計画経済、フォーディズムを生み、消費を重視すれば80年代以降の高度資本主義とポピュリズムを生むということになるのだろうか。
 
 
佐々木毅 ”プラトンの呪縛” 講談社学術文庫 2000年12月 第一刷