アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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世界の思想家2”アリストテレス”より――国制論 アリアドネ・アーカイブスより

 
このシリーズは200数十ページのうち、30ページ程度の”思想と生涯”という概説と、残りをそれぞれの著作からの抜粋から成立し、小冊子であるけれども一応全生涯にわたる時期の代表的な作品の一端に触れることができる。このパンフレットの大型のような著作からアリストテレスの広大な学問的領域について何かを論じるというのは今後の課題だと思っているので、国勢論の話題にとどめたい。

一つはアリストテレスの国家論、特にデモクラシーの考え方である。アリストテレスは彼が生きた現代史としてのギリシャの現状を踏まえながら、三つの政体に区分する。_政、貴族性、9饑、である。”国制”という言い方が如何にも独特である。アリストテレスの独自さは、このあとこの三つの国制の変種態としてそれぞれ、}┝臈独裁制、寡頭制、L閏膽腟繊並臀位閏臉)と展開するところに現れる。

この三つの政体は、歴史的変遷を追っているわけではなく、ソクラテスプラトンの生きた時代以降彼の生きているの時代どの段階において、どの政体もが何時出現してもおかしくは無かった、という意味でアクチャルナ意味をもっていた。例えば_政ならびにその変種としての僭主的独裁制とはアレクサンドロス大王の登場とマケドニアの興亡の歴史の中に、彼が直に経験する出来事である。

貴族性ならびに寡頭制と9饑ならびに大衆民主制との間の激しい攻防はソクラテスからプラトンの時代においてアテネの国力を著しく消耗させた政変の連なりである。有名なソクラテスの死も政変に連座する形で巻き込まれた可能性が高いとも言われている。アテネの現状に絶望したプラトンは遠いシケリアの地に過剰な期待を抱かるを得ず、これが晩年のプラトンに国家論を書かせる機縁になったとも伝えられている。

アリストテレスには、ソクラテスプラトンの反省の上に立って国制論を展開しなければならなかったのだろう。こうして極端を嫌うアリストテレスの中庸思想が生まれた。

アリストテレスの民主制についての理解には独自のものがある。かれは自由や平等を論じる場合にその条件を問う。自由や平等はアリストテレスの場合は天賦の生まれながらにして得た権利ではないのである。自由や平等を条件づける経済的な条件を無視して抽象的な実現をしようとするとき、そこに法的な規制と理念がなければ大衆独裁制を導く、と彼は言う。

”また別の種類の民主制は、他の点では先のと同じだが、法ではなくて、一般大衆が最高の権限を持っているというものである。このことが起こるのは大衆の評決が力を持ち、法が力を持たない場合である。そしてこのような結果が起こるのは民衆扇動家の影響による。なぜなら法に従って民主制が運営されている国では民衆煽動家は現れず、国民の中の最も優れた人々が主要な位置を占めているが、法が支配力を持っていないところでは、民衆は――多くの人々が個人としてではなく全体として主権者になるがゆえに――多数の集団が一人の人間のようになって独裁者になるからである。それゆえこのような種類の民衆は独裁者であって、法に支配されぬがゆえに独裁的支配を求めて専制的になり、その結果取り巻きが尊重されるようになる。”(「政治学」第4巻第4章1292a4-37)

これが2500年前の記述であると誰が思うだろうか。