アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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文明の挑戦、テロリズムについて――テロリズム三部作・その1 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
(要  旨)
 わたくしたちは、宇宙に生まれた生命の種は成育、成長と云う名の正価値としてのDNAを植え付けられて生まれてくると信じてきた。しかし反価値と云うようなものも存在するのだろうか。反価値と云う以上の反現実とでも云うような奇怪な存在も!フロイドはこれを生の欲動と死の欲動として説明したが、それ自身の破壊を通して死を増殖させる、そうした呪われた存在がこの世にはある、と云う現実を冷静に冷徹に見直すところから始めなければならない時代が来たのかもしれない。(本文より)
 
 21世紀の頻発するテロリズムの問題を、文明に対する野蛮の挑戦ととらえることはできない。文明が挑戦を受けていることは間違いないのだが、西洋文明的な価値観だけでなく、人々が共に暮らす、宗教と世俗の法を区別して生業のなかに生きるイスラムの価値観をも含めた、あらゆる諸文明間の価値観を超えた普遍の法が挑戦を受けている、と云うような気がする。テロリズムが目指しているものは、直接的には敵対する西洋的な文明観が支配する国々に、直接的な脅威を与えることだろう。文明圏に楔を入れ、醸成された市民間の不信感を利用して、キリスト教的な価値観に対して挑戦するだけでなく、遥々と祖国の国難を逃れヨーロッパ等に難民として流れ着いた人々が築き始めている、ささやかで慎ましやかな日々の生活や営みをも否定する、根源的な無の概念の台頭である。
 無とは何もないことではなくて、「有」の世界観の反対側にあるもの、根源的否定性である。否定性が静態としての「死」ではなく、死が否定性として無限増殖する過程を想像すればよいだろう。ここにわたくしたちが思い当たるのは、大変に便利ではあるけれども根源的には、「有」に対する否定性の原理である核兵器と核の「平和利用」の考え方である。価値と並んで反価値もまたマイナスのエネルギーとして転用することで諸動力として利用できる。人類は自然に学び、とりわけ西洋文明は自然を利用し利用しつくすことで一段と進展し発展したが、自然を超えたものの利用と云うアイデアを思いつくことは彼らの思想史の論理からみれば必然だっただろう。(自然の論理を超えると云う発想が大規模な環境破壊を帰結する。)
 核兵器や核の「平和利用」をめぐる問題は効率や必要の論理を超えて、これを思想の問題として捉えることができなければ論議としては不毛だろう。同様に、それ以上に、テロリズムの問題は思想として、言葉の問題として考える姿勢がなければ問題の本質は見えてはこない。
 
 テロリズムが否定性の問題であることは知られていた。それが自己否定性の問題として出てくる段階はロシア革命の頃以降のことではないかと考えている。キリスト教を否定したマルクス主義が実際には神学的な概念の奇形で奇怪な大規模な歴史的再現と云う側面を備えていて、大粛清の時代を経て実現したスターリニズムの時代は中世の異端審問を忠実に再現している。ナチズムはイデオロギー的には右派だが、ナチの国家社会主義ドイツ労働者党の名称が示すように、レーニンロシア革命に影響を受けている。ロシアマルクス主義プロレタリア独裁と称するがそのじつ、官僚制独裁機構の千年王国を実現するために徹底的な観念と現実の逆立ちを志向する、現状を現状に根差して理解し知るのではなく、観念と経典の卓越性の観点からそれに不都合な「現状」を否定し弾圧すると云う、国家と神学の荒唐無稽でグロティシズムな関係が見出される、彼らの場合その不都合な「現状」の代表が農民層であった。経典に反する半現実が農民階級の存在であった。なぜならマルクシズムの経典には、プロレタリアートが革命の主体になるべきであり、農民階級はあってはならない「反現実」とされていたからである。観念的理想と実体的な現実が背反関係にある場合に、彼らは間違いなく正しいものの考え方とは常に自らの信奉する経典と神学が正しいと云う考え方である。こうした観念論に領導されてシベリア流刑とスターリン粛清の時代に引き続いて数千万人の餓死者を生んだと云われる。同様で類似のことが毛沢東下の中国共産党下の中国においても繰り返されたと云う。ここでは農民と農村至上主義が農業の有機的な循環の論理を理解しえないがゆえに、干ばつを引き起こし公表されてはいないがソ連と同様の膨大な数の死者を出していたらしい。
 ナチも含めて、これらは余り馴染みのない表現であるが、国家の名による人民への逆テロリズムの謂いである。
 
 20世紀以降の歴史が繰り返されるテロリズムの問題を払拭できなかったのはフランス革命が生んだ理念の上位に人間の欲望を統制する原理を提供できなかったことだろう。キリスト教を攻撃し、あらゆる宗教を否定したのは良かったのだが、形而上的な最高概念を否定した時に自らを除いて確信するに足りる原理を見出せずに物神崇拝の誘惑に屈したことだろう。モーゼが闘ったのは神概念も含んだあらゆる物神崇拝、ものが物象化することの否定であった。
 
 テロリズムの問題は自己否定性、イロニーの問題としても考えることができる。イロニーとは、自己否定的に自己を実現していく過程であった。目指すべき世界は無限過程としての理念であり、他方に無の極限値としての自己がある。自己の否定性が価値を生むと云う考え方だる。このように考えると、テロリズムがイロニーの祝福されざる双子のもうひとりの片割れ、呪われた鬼子であったことが分かる。違うのはイロニーはなお「有」の世界観に属しているが、テロリズムは「有」の反措定、あらゆる価値のマイナス値、破壊してやまないマイナスの極限値であることだろう。
 とはいえ、呪われた鬼子にもそれなりの言い分、論理はある。悪を弾劾する論理だけでは事態を紛糾させるだけで、解決の糸口からは遠ざかるだけだろう。個人的には付き合いたい相手でなくとも、悪と共存し、悪を宥めると云う時代が来つつあるのかもしれない。近代の社会思想史家で悪の問題をとりあげた、冷徹無比のザッハリッヒの哲学者・マックス・ウェーバーが読み直されなければならない時代が来たのかもしれない。(あるいはイロニーと自己否定性の論理にはもしかして彼らも耳を傾けてくれるかもしれない、儚い望みではあるが。)
 
 テロリズムの問題は、文明に対する野蛮の挑戦として捉えるだけではなく、高度に文明化された反哲学が背後に控えていることも留意しなければならないだろう。
 つまりわれわれが相手にしているのは高度に哲学でであるところのものであり、極度に文明化された論理が爛熟の果てに生んだ反転の神学であると云うことだろう。そしてその基底にあるのは20世紀以降の顕著な現象である核に対するものの考え方であるとか、癌の蔓延と云う同時並行的事態に、象徴的に、なぜか似ているのである。
 わたくしたちは、宇宙に生まれた生命の種は成育、成長と云う名の正価値としてのDNAを植え付けられて生まれてくると信じてきた。しかし反価値と云うようなものも存在するのだろうか。反価値と云う以上の反現実とでも云うような奇怪な存在も!フロイドはこれを生の欲動と死の欲動として説明したが、それ自身の破壊を通して死を増殖させる、そうした呪われた存在がこの世にはある、と云う現実を冷静に冷徹に見直すところから始めなければならない時代が来たのかもしれない。
 
 ここで思い出すのは宮崎アニメの代表作『風の谷のナウシカ』である。この神話的物語の中で巨神兵――のちにオーマと名付けられる生きた破壊兵器が出てくるが、これが巧みな自己否定、すなわちイロニー的存在の喩えとなり得ている。ナウシカは最終的に苦渋の選択として原理主義者どもを滅ぼすためにオーマを利用するのだが、これは彼女の素朴な信仰のなかにあるカント的な格率、如何なる存在者も手段としては用いてはならず、目的としてのみ遇せよ、と云う定言命法に反するものであることを自覚している。
 そして、読む進むうちにさらに意外なことが知らされる。破壊することのみを至上命題としてこの世に生を受けたオーマのイロニーとナウシカの間に対話が生まれるのは、ともに母親から誕生の祝福を受けなかったと云う過去の痛みゆえであったらしいのである。あるいはオーマとの出会いによってナウシカは自らの実存の秘密に触れたのである。
 ここから彼女の内に、ある決意が生まれてくる。
 
 パリの同時テロ事件を経て、テロリズムそのものが変質をし始めて居る。古い形のテロリズムは専門的に教育された職能集団による明確な攻撃対象の位置づけがあった。攻撃目標は物質文明の象徴たるマンハッタンであったりペンタゴンであったりした。しかしパリの事件が意味するものは、とりわけ富裕層が狙われたわけでもなかったことである。むしろ庶民の娯楽や歓楽の場であるサッカー場やレストランが狙われた。つまり、政治的には明確な意思を有しているとは思えない中間層がある種の「恫喝」を受けた、とみるべきだろう。つまり誰もがテロリズムの対象から免れない、と云う意味で世界に与えた恐怖は深刻だったのである。
 バングラディッシュの事件は、ISの空爆に参加した同盟国とそれに対して政治的支持を表明した「武器を保有しない」とされた日本人が標的となった。従来邦人がテロリズムの惨禍に巻き込まれることはあっても、偶然的な要素が強かった。刑場となったレストランの広間に引き出されて、日本人であることが確認されたのちに明確で自覚的な意思の元で殺された。老人や女性、子ども、弱者に対する古典的テロリズムの仁義は適用されなかった。
 ただ、ここで少し気になるのは、国は海外渡航者のために危険性をもう少し注意喚起すべきであったことだろう。またそれは良いとしても不可解なのは、事件の報道を受けてそれに類する議論が遡って論議されないだけでなく、それを憚る雰囲気が国内にあったことだろう。異国に孤立してある一人一人の国民を守ると云う発想よりも、なにかそれを上回る上位の領域や論理があるのだろうか。テロリズムが卑劣な行為である!と勇ましく弾劾することだけで君は満足したのか。
 ニースの事件は、テロがいわゆる「武器」と云う形をとらずにも実現化しうること、ミュンヘンの事件は若者や子供たちが最初からターゲットにされたことだろう。報道を前提として、何が効果が高いかと云う冷酷な論理がここにはある。テロ以外にも昨今の現象として年少者や子供たちに向けられた犯罪が頻発しているが、この現象の背後にある考え方は未来の否定と云う考え方である。誰しもがイワン・カラマーゾフの悲痛な述懐を思い出すだろうか。あまりにも遠く、われわれは流されてしまった。