アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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☆認知理論の前哨――愛の風景 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
小磯良平 『斉唱』1941年
 
 
 ふだん私たちはものを認識する場合、ある無意識を前提を了解しています。つまり認識されるものをなぜか自分の「外部」に想定し、外部-内部という二元的な構図を想定しているのです。当たり前のことではないか、と考えられるかもしれませんが、この、自然的な無意識の、ものを知る時の構え方を、特に対象性論と云ったりします。
 
 対象性論をちょっと考えて見ると、次のような特徴があることが解ります。一つは正確に観る、と云う認知の主体側の姿勢、この場合は、対象はできれば「静止」していることが望ましく、第二に、物事を知るとは見るものと見られるものの間に「適当な距離」があることを望ましい、とする態度です。ものを正確に見るための焦点は、適度の距離が前提されなければならないからです。焦点距離が「0」ではものは見えないのです。見える見えないと云うよりも「観る」と云う世界が認知の構造として成立しないのです。
 
 ここから、対象から適度の距離を取ることをもって、客観的であるとか、主観のバイアスに影響されない中立的な態度を持って、認識の望ましい在り方であると云う、伝統的な認識論、あるいはものの見方の普遍的なありようと云うものが誕生するのです。
 
 プラトンイデア論からカントの先験的観念論に至るまで、そう言えば認識するとは、人間の五感の能力における、見ることと云う姿勢に特化したものの見え方論であったことが了解されるのです。
 問題をより重要なものにしているのは、かかる伝統的なものの見方が、学理学説の世界だけでなく、深く日常生活を律していることです。場合によっては日常性のカノンと言ってもいいほどなのです。
 それゆえ伝統的なものの見方との対決は、一方では学理学説との、他方では強固に根付いている日常性そのものとの対決と云う、両面作戦と云う困難な道のりとならざるを得ないのです。
 
 この伝統的な見方において特徴的なのは、とりわけ愛を語る場合の不器用さと云うか、その神秘的な語り口です。
 高名なプラトンイデア論が愛の理論に淵源することは明らかでしょう。イデア論には濃密な饗宴の場における同性愛の思い出が秘められていました。肉感を伴う女性の愛では愛の理念性が持つ透明感にそぐわないと思えたからです。
 それから、カントの認識論においては「物自体」なる有名な概念があるのですが、後世のヴィトゲンシュタインの「言語の壁」の起源ともなった認識の彼方に存在する「物自体」と呼ばれるものの正体の一つが、愛であったことは未だ誰も語ろうとはしないのです。
 カント哲学に秘められた愛の記憶について語ること、しかもセンセーショナルに語ること、「物自体」とは厳直なるカントの初恋だったのです。必ずしも固有の人格との間に結ばれたと云う意味ではなく、世界との出会い、世界経験としての、と彼の場合は云うべきでしょうか。
 
 愛は、認識や哲学の世界からは長らく相応しくないものと考えられてきました。理性と感情の二元論であるとか、元来論理的な学問である哲学の場合、感情や情動の世界に属するもと考えられてきたのです。もっと云えば、愛とは論理的に考えるのではなく行為の世界に展開するものであると云うように考えられてきたのです。しかし愛もまた、一個の独立した、しかも極めて固有にして個性的な認知の形であることが分かって来たのです。
 
 愛と理性的認識の違いは、――対象に係る場合の違いはこうです。
 あなたがもし駈けだしの医者であるとして、必要な医学的な処置として我が子の手足の一本を切断しなければならない場合に、医者としてあるいは親として感じる心の痛みの違いです。いち個人の中にダブって現れる痛みの感覚の違いの中に、医者であることの認知の構造と、子を思う親であることの認知構造の違いが重なった現れるのです。
 
 先の対象性論を用いて理解すれば、愛とは内と外とが不分明な、「内」と「外」とを弁別しない認知の在り方なのです。「内」と「外」の適度な距離と云うものを前提しない、あるいは焦点距離距離「ゼロ」の認知構造なのです。
 ここから、世俗を生きる場合の愛の固有な卓越性や反面的な不器用さの長短も現れるのですが、愛は理性を忘れた行為でも感情にかまける愚かさなどではないのです。ましてや愛が盲目であるなど、とんでもない誤解です。愛は曇りなき透明性の極限態なのですから。
 
 伝統的な認識論を静態的な認知の在り方であると云うふうに理解するならば、愛は動態的な認知の在り方であると表現することが出来るでしょう。つまり恋人の魅力は物理学や数学の知識を使っても理解できないように、信じると云う行為的直観を用いないと見えてこない世界があるのです。
 
 愛は、愛するものにしか分からない。あるいは神は信ずるものにしか観えてこない、古来云われてきたことは真実だったのです。
 愛を否定するにせよ神の存在を懐疑的に考えるにせよ、そのように見えてしまうあなたの認知の在り方が伝統的な対象性論に基づいていること、真に客観的であることを欲するならば、その都度に見せる認知の編差や偏りを相対化してみせねばならないのです。
 
 人間の認知の素晴らしさは、かかる固有でもあれば個性的な愛の理論の個人性を超えた、時折文芸の世界が見せる「語りの世界」が見せる超客観的な認知の構造にあります。つまり語るのは誰かと云う、事象そのものが語る世界です。みなさんは、森や山や僧院が語り歌うのを経験したことはありませんか。同様に、平家物語シェイクスピアの史劇の世界に於いては、人間ドラマが残虐さと怨念を超えて、時そのものが語り歌っているのです。つまりここで語り歌っているのはもはや人間ではありません、語るのは近代の個人や人格や自我と呼ばれる様なものではなく、魂そのものが歌い語っているのです。 魂の実在を信じるからこう云うのではなく、消去法の果てに魂が語り歌っているとしか考えられないからなのです。アリストテレスが『美学』において語ったミメーシス模倣とは、かかる自然と芸術との間に成される交歓関係、先-人称的な語りを中心とした両者のミメーシス、模倣-照応関係、事象のコレスポンダンス交響、の事を言っていると思うのです。
 
 超主観的にして超客観的な位相において魂が自らを自体的に語る世界、それは何故か愛の風景に似ています。固有で個性的な他に代え難いプライベートであることの極限的在り方でありながら、同時に個人を超えた客観性や絶対性の概念に似ている愛の風景、愛の認識の深まりが個人の運命性を超えるのは、それが超主観的にして超客観的な語りの認知に変貌するゆえなのです。
 
 この日、この時、この時刻、愛は、同時に理性的なのです。愛は幾度となく押し寄せる形而上学的な波の頂点に在りながら自らを支えつつ、激情的にして冷静である、自らの私秘的な存在的な根源に触れながら、心身脱落の果てにある種の透明さに到達すると云う離れ業を演じるのです。個人的個性が語りの持つ世界と合一する稀有の瞬間とも云えましょう。この段階から語りは伝説となるのです、伝説となり、叙事詩となるのです。
 愛は、プラトンやカントの認識論とは違った意味で論理的なのです。