アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ミュンヘン事件 もう一つの顔「最後列から二番目のテロリズム」――いじめ社会のテロリストたち―‐アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 
(要  旨)
つまりここから云えるのは、圧倒的に優勢な権力に立ち向かう命を懸けた行為としての古典的テロリズムでもなければ、先回までに述べてきた、テロリズムの心情が反転して、自らも弱者でありながら自分たちを差別してきた強者の論理に乗り移り、最強者を幻想的に演じることでわずかに残った自らの辱められてきた尊厳を守ろうとする、逆テロリズムでもない、
――あえて名付けるならば、・・・(中略)・・・、「最後から二番目のもの」の心理に基づいたテロリズム、と仮に名付けることができるでしょうか。あえて「最後列から二番目のテロリズム」と名付けましょうか。(本文より)
 
 
 
 ミュンヘンのテロ事件はその後、違った側面も明らかになってきました。
 それは、犠牲者のなかにトルコやコソボと云った、地域の人が含まれていたことです。彼らは、女性になりすましたテロリストのツィターなどを通じて現場に呼び寄せられた可能性がある、と云われています。つまり、欧米系の人間に対する反感だけではなかったと云うことです。
 ところで、イランですが、イラクとは名前は似ていても宗教その他においても違いがあって、古くはペルシャアレキサンダーの時代に彼の積極的な同化政策ギリシア民族との混淆が行われたことは事実ですが、何分遠いむかしのことではあり、とはいえ、古い伝統を持つこの国の国民には独自の誇りがあって、おりにふれて自分たちの祖先がヨーロッパと同じインド・アーリア人種であることを特徴的に主張してきたことです。
 そうしますと、あのビルの屋上で彷徨うテロリストの映像を撮影していた近所の住民の「お前はトルコ人か?」と問われて、「俺はドイツ人で、この国で生まれた」と苛立たし気に叫んでいることです。
 この十八歳の青年は、イランとドイツの二重国籍を持つ男で、ミュンヘンに両親と暮らしていたことも分かっています。
 ドイツの移民社会には、トルコ人や悲惨な内戦を経験したコソボの人などがいて、さらにその底にはシリア人等の中東の難民たちがいると云う、難民社会のヒエラルキー的な構造です。
 つまり彼としては、ヨーロッパへの反感だけでなく、自分は少なくともドイツ育ちであり、他の難民とは違うのだ、あるいはドイツにおける大量の難民が受け入れられ、その正負の側面が顕在化する過程で、とりわけ昨今の移民社会のネガティーヴな側面が卓越する過程で、ドイツ育ちの移民の生活が危うくなりかけていると云う危機意識があったとも想像されるのです。
 移民社会にもヒエラルキー、階層があって、最後から二番目の弱者が上位のものへの犯行を諦めて、最下層のものへの制裁に向かうと云う、いじめの構図と同じような側面が見て取れるのです。
 青年はドイツの学校社会にもなじめず、いじめにあっていたと云う過去も報告されています。その結果、心理的に不安定になって精神疾患の対象となり医師の治療も受けていたとか、その他の情報も明らかになりました。
 つまりここから云えるのは、圧倒的に優勢な権力に立ち向かう命を懸けた行為としての古典的テロリズムでもなければ、先回までに述べてきた、テロリズムの心情が反転して、自らも弱者でありながら自分たちを差別してきた強者の論理に乗り移り、最強者を幻想的に演じることでわずかに残った自らの辱められてきた尊厳を守ろうとする、逆テロリズムでもない、
――あえて名付けるならば、日本で云えば厳格な士農工商の社会的身分の下に穢多(えた)・非人階級があり、さらに犯罪者の世界があったように、「最後から二番目のもの」の心理に基づいたテロリズム、と仮に名付けることができるでしょうか。あえて「最後列から二番目のテロリズム」と名付けましょうか。
 
 ところで、弱者の集団のなかにある最後から二番目のもの達が辿る運命こそ、「いじめ社会」の特徴的な構図なのです。
 いじめ社会とは、中心に価値のヒエラルキーがないため、集団を纏める求心力はメンバーの誰かを排除すると云う、疑心暗鬼の構図です。その構図の中で、哀しいことに誰もが自分は最弱者ではないと云うことが日々証明される必要があります。最弱者なりそれに類する象徴的な対象をとりあえずは犠牲の羊としてまつりあげることで、この脆弱な集団は負の秩序を辛うじて維持しえているとは云えるのです。
 いじめ社会の、わたくしの説明を聞いて、何かに偶然ンに似ていると思う人はいるでしょう。いじめ社会の排除の構図は、大なり小なり資本主義社会のサラリーマンなり官僚機構のなかで表立っては云えないものの、しっかりと根づいている裏社会の論理なのです。とりわけ格差が際立ってくる二重社会やダブルバインドの価値社会では顕著な傾向となるのです。
 つまり今回のミュンヘンの青年の心理は、今日のドイツをはじめとする資本主義と市民社会の適者生存、優勝劣敗のイデオロギーを、補償的裏社会の論理を忠実になぞったものと云えるのです。
 
 ところで皆さんは、ヒトラーがどのようにして大衆の意識操作をしたかご存知ですか。経済の停滞と格差の拡大にも関わらず今日の日本社会に於いて、「最後列から二番目の」かくし芸をカムフラージュさせながら巧みに披露しつつ、世論操作としての政権の支持率を高めていった政策論的秘密についてご存知でしょうか。
 ヒトラーは言ったと伝えられています。大衆は難しいことを言っても分からないから、なるべく短いセンテンスに区切って話し、単純なフレーズを何度も連呼すること!――たとえば、経済!経済!と。実行!行動力!できる政治!と連呼する。憲法9条に関わるものは公約の最後に小さく掲げておく。反論するものがあれば、対案を示せ!と居丈高に居直る。異議を示すものがあれば、国益を損なう非国民である!と決めつける。国益の中身がよく分からないのですが。
 アメリカにも似たような知能の人がいますね。
 
 ひとが人を統治する技術には二つの方法があります。一つは霊感と聴音域を高めて言論の卓越性に於いて文字通り人々を言説の求心性の渦のなかに巻き込み、人民自身を公共性なかに自己を最終的な実存として見出す、聳える言説として高める道です。
 もう一つは、最低限度の落とせるところまで人間の本性を落として、平等主義を時に謳歌しながら巧みに大衆に取り入ることです。ここでは誰もが平等であるべきと考えられているので、高貴さや品性、たぐいまれな卓越と云うことが我慢のならない癇癪玉の対象となり得るのです。
 出る杭は打たれる、抜きんでようとするものの脚は引っ張られる、全ては劇場仕立ての政治小笑劇となり、政治は娯楽とものぐさの慰みものへと堕落していくのです。ギリシア時代においてはデマゴーグの政治、現代ではポピュリズムと呼ばれているお馴染みの、当のものです。