アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

 『日本橋』――シネマ歌舞伎の往き帰り アリアドネ・アーカイブスより

 『日本橋』――シネマ歌舞伎の往き帰り
2015-06-03 19:18:41
テーマ:映画と演劇

 


・ 五月晴れのある日、片道10キロほどもある映画館への道を往復、歩くことにした。まず、片道を歩いてみて、具合で帰り道はバスに乗っても良い、気楽な発想で歩きはじめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 見に行ったのは、シネマ歌舞伎玉三郎+鏡花の、
日本橋』。
二人の芸者の意地と技芸の誇りを描いたものと云えようか。二人の間にあって、翻弄される優男の医学士・葛城晋が、じれったいほどの純情さを示していて、この三人に北海道の羆とあだ名される、粗野な男が絡んで、最後は悲劇となる。
 
 泉鏡花の原作は三つの意味で印象に残っている。
 ひとつは、雛祭りが果てた夜、お供えにした栄螺と蛤を川に流して殺傷を否むと云う医学士の奇特なこころ。奇特な心がけには、葛城の生死不明の姉に対する記憶が揺曳している。
 実際に、この世にありうべきでない男子(おのこ)の奇癖・奇行をみた通りすがりの巡査は不必要とも云える執拗な尋問を試み、芸者・お考の機転に助けられて葛城はその場は開放されるのだが、それだけでは済まずに後日談があって、これが後日東京大学の生理学研究室を訪ねてきた先の巡査の奇特な好奇心を満たし、それ自体が王朝風の風物詩なり風流と称されてきた日本的美意識に対する和讃になっている点である。
「『私は別世間を見たです。異なった宇宙を見たです。新しい世の中を発見して寧ろ驚異の念に打たれた。・・・・・』(本文・「美挙五十二」)
 鏡花の面目躍如の場面と云うべきか。

 二つ目は、お孝からライバル視される芸妓・清葉、芸者であるにもかかわらず内向性の中に矜持を内に秘め、婀娜な言い寄る男の好色を許さない貞操意識、――芸者に貞操意識とはおかしなものだと自分でも言い云いしながら、彼女の義理堅いこの世への意識が彼女の生涯を不幸にしている。最後の悲劇の場面で硝酸を仰いで息絶えようとするお孝のいまわの際の唇から漏れ出た遺言を、律義に忠実に受け止め、果たそうとするのも彼女の義理堅さなのである。
 ある意味では鏡花の理想的女性像を彷彿させるかにみえる清葉でるが、万事控えめで、手弱女の典型であるかのように、万時が大和絵風の朦朧態で描かれる彼女であるが、たった一か所だけ、――もう一つお孝の臨終の場面を別とすれば――その性格が、光彩陸離とまでは言わないけれども、溌溂と描かれる場面がある。
 場面は、後半、零落したお孝の置屋を見舞いに訪れた清葉が、お孝の妹分お千代の座敷を取り持とうとする場面で、芸者が衣類を改めるとは如何なるものであるかを語る、江戸前としか言いようのない啖呵の切り方である。
「『おまちなさいまし。』凛と留めて。『切火を打って、座敷へ出ます。芸者の着物を着せるには作法があるのです。・・・・・お素人方には分かりません、手が違うと怪我をします。貴方、お控えなさいまし。』
 これと好一対を成すのが、玉三郎の名台詞と謳われる次の場面。
「『雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名の告って、一所に詣る西河岸の、お地蔵さまが縁結び。・・・・・これで出来なきゃ、日本は暗夜だわ。』」(本文二十六)
 この台詞を言うのは、もちろんお孝である。

 第三は、芸者と云う、お金で色恋を売り買いする商売ゆえに、そこで反って純粋なものが生まれてしまうと云う不思議さである。お孝は、何かと云えば花柳界で一位の清葉への対抗心のみで生きているような意地と張りの女である。
 小説『日本橋』の、お孝の恋情の経緯を辿るならば、女だてらに一家を張って生きてきた百戦錬磨の花柳界の女武者が、男を愛すると云うことをっ知ったがゆえに乙女のような純情さを知り、最後は処女のように隙だらけの生き方をも由として、破滅していくお話である。
 思い返せば、最初は玄人芸者の手練手管で男・葛城を翻弄し、誘惑に成功するのだが、最後は清葉と葛城と云う朋輩二人の惚れ方の水準の高さに、純度の高さに惚れ込んでしまう。鏡花の小説を読むと、恋情に於いて男であるとか女であるとかは関係ない、と云わんばかりである。
 最後は、お孝は清葉の忍ぶ恋の中に自らの愛を重ね合わせ、委託する。お孝が、葛城への愛ゆえに狂気に陥りながらも、放浪の旅に出て、全ての世俗の縁を切ろうとする男の後ろ姿に、さようなら、とて京人形を託する矛盾に満ちたあり方は、畢竟そのような意味であると解されなければならない。男と別れるのに、同性のライバルの名前に呼び掛ける、同性愛などと云う品位の低いお話ではないのである。

 最後に、表題の由来である。
 日本橋、の由来。物語の舞台が全て、狭い、東京の日本橋と云う地名の場所で繰り広げられたこと、そこには一石橋と云う木橋があって、大事な出来事は悲劇も喜劇もここを機縁にここで生じる。
 この橋から、当時、江戸の堀をめぐらした江戸八橋の全てが見えたと云う。春は桜の朧闌けた雪洞に照らされた花吹雪の中に、あるいは深々と降りつもる雪化粧の静謐さの中に、鏡花好みの女性(にょしょう)は江戸千代紙の滲みのように、艶やかに纏綿として描かれている。
 男の主人公の名前が葛城であることも、お能の影響を云々することすら恥ずかしい鏡花の素養や教養があったことを思えば、吹雪とも桜吹雪とも云える幽玄の美を湛えた能『葛城』が遥かに木霊していることをいっても、そう大きな見当違いにはならないだろう。


【原作と映画の違い】
 映画には原作にない次のような場面がある。元々。鏡花にも小説の他に戯曲に書き直されたものがあるので、映画は後者に準拠していると云う。
 何かと花柳界で「令夫人」などと評される清葉への対抗から同じ長襦袢を造らせて、それを妹分のお千代に着せて、時分は葛城になったつもりで、お千代を抱く、――と云うより、葛城になりきった自分が自分自身を抱く、と云う倒錯した場面である。
 お孝や、彼女の造形を通じて鏡花の同性愛的傾向が云々されそうだが、そうではなくて、話し言葉とも見える、主格がしばしば省略された、飛躍に富む文体は、何か近代小説的な意味で、人格や個性をくっきりと描くと云うよりも、人格と人格が溶け合って、個性を超えた、言ってみれば超現実的な表現であるように思われる。
 お江戸日本橋と、堀を渡る橋ばしの見える風景が語る、風情と風流が語る、と云った塩梅なのである。

また人物の表情を近接して、即物的に映すシネマ歌舞伎における玉三郎はどうなのだろうか。お孝と云う芸者は、愛に染まることで狂気の世界に反転し、芸能と世俗の世界では零落していく役割だから、清葉演じる高橋惠子の嫋嫋たる美しさの際立ちを描いても良いのだが、容色の衰えと、反比例するような心の純化がもたらす哀れさ、と云うものをどの程度表現できたか、結論は差し控えるけれども、両方を見たうえで各自が判断すればよいことである。