アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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武藤剛史 『プルースト 瞬間と永遠』 無意識的記憶とは何か アリアドネ・アーカイブス寄り

武藤剛史 『プルースト 瞬間と永遠』 無意識的記憶とは何か
2013-01-29 18:11:35
テーマ:文学と思想

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 ・ 私たちの国で高校生たちが『高瀬舟』や『こころ』、そして中島敦の『山月記』を読むように、フランスの高校生たちはプルーストのハーブ茶とプチットマドレーヌの挿話を読ませられるらしい。この挿話は分かり易いとともにわたしたちを困惑させる。なにゆえ無趣味な菓子パンなのだろうか。お茶に浸してパンを食べると云う品のない作法を文化の国フランスでは推奨しているのだろうか。ことがフランス文学のことでなかったならば失笑をかっただろう。

 さて、プチットマドレーヌの挿話は余りにも有名で広く巷間に膾炙されているわりには何が語られているかについてはどの解説者も口を閉ざしている。確かに一杯のハーブの茶碗からコンブレ期の思い出の一切が甦ったと云うのは、比喩としては美しいがそこで描かれる内容は印象派風の美しさを持っているとはいえ、死を代償にしても悔いないほどの人生の真実が描かれているとは思えない、とそう思うこともある。それにしても、ハーブティーにプチットマドレーヌと云う菓子パン、何とも陳腐である。その味覚と嗅覚が与えた無意識的回想が齎した過去の内容についても、プルーストがそのくだりで頻発させている、真実の世界であるとか「本質」=エッセンスと言う言葉がに響かない。何故なのだろうか。その疑問に応えるのが本書である。

 武藤によれば、プルーストがハーブ茶とか菓子パンとか、あるいは庭伝いの敷石の段差とかの日常の卑近な例を用いるのは、それらが例の、「知的価値のない物質、どんな抽象的真理とも無縁の、ある特殊な物質」によって引き起こされていることを言わんがためである。
 また、マルタンヴィルの尖塔をめぐる写生文と考察や、ノルマンディーに向かう車窓から見た三本の木の挿話にしても、それは普段見慣れない移動する空間と云うものの中に自分自身を置いて観ることで成立する、日常の遮断と云うことを言い換えているにすぎない。
 つまり、人生の本質とは、日常とは異なった審美眼で見出されなければならないと云うことだろう。

   

 その例証として、プルーストは、画家シャルダンについて、レンブラントについて、そしてギュスターヴ・モローの画業について語る。
 シャルダンこそ、美がハーブ茶や菓子パンのような日常な些細な現実に内在してあることを描いた画家であった。芸術は第一段階としては、日常を離れた超越ではなく、日々の再創造である。この時代は絵は描かれた内容に於いて格づけられていたが、芸術的審美性の前ではひとし並みに等価なのである。芸術は第二段階としては対象に向かう敬虔な姿勢、つまり現代芸術のように想像=ポイエシスではなく、まずは模倣=ミメーシスなのである。

   


 ところでレンブラントに於いては、しばしば画家が描く光と闇の画面全体に広がるオーラのような「黄金のマチエール」、黄金の光が問題になる。この光は何処から射してくるか。レンブラントの内面から射して来ると云うのである。つまり作家は個性的であらねばならない。ミメーシスが現実の変容であるとするならば、ミメーシスとは隠喩であると云う、最終巻「見出された時」に於いて語られることになるプルースト詩学が披露される。

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 現実とは云ってもシャルダンに於いては敬虔な信仰の対象であったものが世紀末のギュスターヴ・モローに於いては全く違った意味を帯びて来る。芸術的感性と世俗の在り方、芸術家と世俗的世界の乖離は決定的なものとなり、芸術的な論理は日常世界の論理の否定の上にしか成立しない時代がやってくる。それがモローの生きた時代でありプルーストの生きた時代であった。
 プルーストがモローの画業について語ることは、後にサントブーヴやゴンクール兄弟の実証主義印象主義について語ることの先駆をなしている。つまり本質は決して日常の論理を用いて語ることは許されない、と云うのである。

 こうして第一巻の「見出された時」においては、ハーブ茶とプチットマドレーヌの菓子パンと云う契機によって無意識的回想が齎したもの、特権的瞬間の背後に隠された影が、つまりマルタンヴィルの尖塔をめぐる省察が、現象的世界の背後にあるものへの、本質への探究を促したように、最終巻「見出された時」においてはゴンクール兄弟のパスティッシュ文体模写を通じて、文学を通じての使命とある種の固有の絶望感が語られることになる。つまり失われた時は、始めと終わりの両巻の両端部に於いて、マルタンヴィルの写生文とゴンクールパスティッシュは厳密なシンメトリカルとも云える対応関係を見せている、と云う訳である。

 つまりプイルーストの美学とは、知性や理知に頼らない無意識的回想と云う何か神秘的な能力や超越的世界経験を語るものではなく、ヴィクトール・ユゴー以来の文学史を、スタンダールバルザックフロベールエミール・ゾラをへてプルーストの時代に至る文学史を、サントブーヴやゴンクール兄弟の文芸批評の方法を批判的に総括しながら、総体としての近代を芸術史の方法を通して描くと云う途方もない試み、だったらしいことが分かるのである。
プルーストの小説は、一方では理性や知性の限界を説きながら、内実は感性が卓越する抒情文と云うよりは、徹頭徹尾知性の力で構成された理念的構造物であることがわかる。それは通常の客観的小説の叙述法とは大きく乖離したある種のエセー、描写と記述と哲学的かつ美学的考察が組み合わさった、類例のないものである。かかる小説がこの世にあるとは私たちの水準からは考えてもみない次第であった。日本の文学的水準と現状を思う時その格差にわたしは愕然とせざるをえない。わが国では失われた時は、現状四人の個人訳が既にあるか或いは現在進行中である程の盛況を見せているが、それは反面に於いて日本の現代文学は国内の読者の欲望に応えてもいないと云うことなのだろうか。あるいは少なからぬ日本のプルーストのファンが果敢にもアルプスのように峻厳ていて奥深い、且つ沼澤が小道の奥に散在する迷路のようなマルセル・プルーストの文学に挑戦すると云う現状を、日本のプルースト学が成し遂げつつある戦後の文学の現状を、われわれは誇っても良いのではあるまいか。最近感慨をもって感じるのは、プルーストジョイス、あるいはドストエフスキーと云った巨大な文学のまわりに集まる文学ファンの熱心さと、毎年ジャーナリズムに顔を出し浮き沈みする日本の群小作家たちとの関係である。これはかって森有正も言っていたことであるが、世界史における西洋文明の問題は当該対象が何であるかを知ることなしには予選落ちすら問題にされないのではあるまいか。こんな呑気な日本標準の夢を貪っているようでは二度目の黒船と開国の洗礼を受ける羽目に陥らざるを得ないのではないのか。
 脱線気味の話題をプルーストに戻そう。

 こうして最終巻において芸術家の使命が開陳されるのであるが、解釈が難しいのは語り手「私」によって批判的に乗り越えられることになる、シャルル・スワンやシャリユス、ノルポアと云った、芸術のディレッタント的な役割の人間たちが、ちょうどモーゼによって断罪されるように、偶像崇拝者たちとして、当世のスノビズムの超本人として、そしてソドムとゴモラの住民として否定的に描かれているわけではない点だろう。偶像崇拝を批判されたスワンやシャリユスとアルベルティーヌの外套をヴェニス派の緋の色を混同して語る語り手の姿勢に何が違いがあるのだろうか。むしろ現実的事象と文化的事象を混同し或いは錯覚し、錯覚や幻想が現実によって訂正されるまでの短い時間を、咎めるでもなく非難するのでもなく、荒唐無稽さをそうであるがままに生きて見せることによってプルーストは現実の見失われた豊かな厚みを回復させようとする手法の一つなのである。
 極めつけは、彼らよりも下位にあるとされるゲルマント公爵の、世俗と老醜にまみれた滑稽な姿を紹介しながら、「見出された時」掉尾の数行に於いて、物語的世界は一転して「巨人族の物語」へと、雄渾な時に抗った者たちの時の叙事詩として完結すると云う、アクロバッティングな結末が用意されているのである。

 プルーストが描いているのは、ダンテのように一流の詩人でないものは地獄か煉獄に行くべきだ、ということではない。芸術が持つ高貴な感性の力によって汚辱に満ちた世俗を救うべきである、という所信表明でもない。19世紀の小説家たちが信じたような人間を「生き生きと描く」などと云うことを信ずることなく、客観的な人間像などと云うものはあり得ず、所詮は人格や個性と云ったものは社会的な伝聞や慣習によって徐々に形成されたものである。そう言う現象を現実と思うのは幻影に過ぎないのであって、真実なるものは、その時々に見せる断層、ちょうど映画が細切れの断片を早送りで実在らしき四次元の像を演出するように、現実というものを成り立たせている仕組みは極めて幻想的で非現実的な過程が介在している。確かなものはかかる「人格」や「個性」がその時々に見せる一齣の断片、個性の断層にすぎない。人はその時々で具体的な局面に応じて偉大でも卑小でもあり得る。プルースト風に言うならば、スノビズムの愚かさを理解することとスノビズムを批判してみせることは「等価」である。俗人たちの様々なドラマが、近代と云う時代の終わりを振り返り、円環が閉じようととして現在に於いてみると、巨人族に奉げられた挽歌、一篇の雄渾な叙事詩のように思えた、と云うことなのだとうということを、この本を読みながら感じたことである。