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ユルスナール”とどめの一撃” アリアドネ・アーカイブス

ユルスナール”とどめの一撃”
2011-08-11 09:44:21
テーマ:文学と思想




詩人にしてユルスナールの紹介者である多田智満子はかって”ハドリアヌスの回想”について以下のように述べた。すなわち、ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスがアンティノウスの物語を欠くならば自分にとって興味を惹くものにはならなかっただろう、と。

 含蓄のある言葉として重く受け止める。わたしのばあいはこうである。――かりにアンティノウスの物語がありえたにしても、ハドリアヌスローマ皇帝でなかったならば”ハドリアヌスの回想”は物語り空間としては成立しなかっただろう、と。比類なき時代における比類なき人としてのハドリアヌスの物語なのであった。

 比類なき時代とは何か?ユルスナールの自注に倣って読むならば、神々の時代は既になく、唯一の天地創造の神はいまだ無い、神々の時代と神を繋ぎ渡された夢の架け橋のような時代、人間が最も輝いていた時代のことである。ユルスナールは比類なきひとを比類なき文体で語った。一人称の語りという比類なさがここに虚構として成立した。文体こそが登場人物の一人だったのである。この点を見落とすとき、ひとは性愛やデカダンスの物語しか読めないのである。

 一人称の語りが持つ虚構性は初期の”とどめの一撃”においても際立っている。
 この物語は主要な登場人物が、二人の姉弟と幼馴染の語り手というギリシア悲劇を思わせる簡潔さを備え、時と所と劇的物語性によって古典的な骨格を備えてているかのごとくである。しかし読み始めると明晰でいて抽象的な乾いた文体に戸惑わされる。鋼のような硬質な文体は読み手の側の叙情性を撥ね付ける。つまり語られる対象の感傷と語ろうとする文体の論理的抽象性の対比があまりにも極端なのである。事象と文体の不一致、語られる内容と語ろうとする方法との非対称性、これがユルスナール固有の抒情を生んでいるのである。

 物語は1914年頃の第一時代線末期の、バルト海に面したバルト三国、リガに程近いある僻村の古い館に集う二人の姉弟と、語り手の、恋愛とも兄弟愛とも異性愛とも同性愛ともいえない形を成す以前の愛の物語である、といったら誤解を招くだろうか。粗筋を要約してしまえば、敵地に飛び地のように取り残された館に結集した反共パルチザン勢力と、その幼年時代を過ごした三人の極限状況における愛と死の物語である。
 また、この古い館は、二人の姉弟と語り手が少年時代の一時期を過ごした思い出の場所でもあった。

 出会いからもどかしいまでの愛と憎悪の振り子運動の果てに、誤解のように赤軍に走った姉ソフィーの処刑を本人から依頼されて終わる戦時下の惨劇の一こまといえば分かりやすいのだが、それを語る文体が半端ではないのだ。まるで大国間の運命的帰趨に翻弄され続ける小国が持つ地理上の曖昧さと揺らぎ、第一時代戦末期の共産主義の侵攻を巡る戦略的地域の視界を閉ざされた膠着の状況がそのまま、明晰でありながら同時にひとつとして対象を明瞭な映像としては結び得ない語り手の文体との、厳密とも云える対応がある。

 明晰であると同時に視界を閉ざされた語り手の文体は、読者の協力をもまた要請している。ユルスナールは書く。――読者は想像力によって行間を埋めなければならない、と。(まえがき・同書p11)

 例えば、”とどめの一撃”の表題の由縁となったクライマックス、語り手が姉のソフィーを処刑する場面はどうだろうか。彼は司令官としての権限と温情を持って、縁故の故をもって幼馴染を救うことも不可能ではなかったはずだ。しかしソフィーは処刑者を遺言の形で逆指名し、語り手は捕虜の一員として最後に射殺する。この場面を描写するユルスナールの筆力は次のごとくである。

”クリスマスの夜をこわごわ爆竹を鳴らす子供のように、顔をそらしながら引き金を引いた。最初の一撃は顔の一部を吹き飛ばしただけであった。そのために、ソフィーがどんな表情で死を迎えたか、永遠に知ることができなくなった。二発目が全てにけりをつけた”

 こともなげに書かれているけれども凄惨な場面なのである。二発目でけりをつけた語り手の職業的沈着さよりも、読者は一発目で顔面の一部を吹き飛ばして激しく動揺をきたした語り手の表情を読み取らなければならない。手に取るように誰にでも分かるはずの語り手の被験者として受けた臨場性が、ユルスナールの文体ではまるで語られていないのである。

 この愛を巡る三人の物語からユルスナールの個人の物語を推測する事も可能である。しかし読み終えてみると、ありふれているようでいてありえない、厳密に偽古典主義様式にのっとった物語を巡る三人とその他の人々を巡る物語において、語り手の一人称の語りという、自分自身の自己正当化に繋がりやすい位置にいたにも関わらず、偽悪的に振舞った語り手を含めた複数の人間像に対する敬意の気持ちが湧き上がってくるのを感じる。それは生者、死者の区別を越えた時間を生きた人間への敬意なのであった。
 
 ユルスナールは書く。
”「とどめの一撃」の執筆を私に選ばせた理由のひとつは、これらの登場人物に内在する高貴さであったと付け加えれば、自分が時勢に逆らっているのは十分承知している。この言葉の意味について、誤解のないようにしておかなければならない。私にとって高貴さとは、打算利害の完全な不在を意味する。”(まえがき・同書P15 )

 この高貴な感情こそ、ハドリアヌスとアンティノウスの物語とを通低する物語なのである。かってホメロスの語る遥か古代のトロイア戦争の史実を我がごとのように、友のために死んだパトロクロスの死に殉じるように生き急いだアキレウスになぞらえて、ナイルの川に身を投じた青年アンティノウスと比類なき帝王ハドリアヌスの秘められた愛の物語とを。