アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディの作法と文体 アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディの作法と文体
2019-02-20 07:35:47
テーマ:文学と思想

 


 罪なき一人の乙女が堕落させられ、最後は自殺の追い込まれると云う、どこかで聴いたことのあるような、月並みで単純なストーリー、それゆえにこそ、暗く、陰惨な描写を予想するのだが、――事実、気がめいって、すらすらと読み進めると云う訳には行かないのだが、読み終えての読後感は、陰惨とは無縁な、神話的な輝きと文芸の芳醇な香りに満ちている。ちょうど、森や里山を描写するハーディの自然描写のように。
 自然の発見とは、人類に新たな世界を観照する目の発見をもたらしたが、描写の進化は同時に根本的な世界観の変化をもたらした。わが国においても、国木田田独歩の文学が、かってそうであったように。
 自然の発見と云うことに関連して、ハーディの『テス』、正確にはダーヴァビル家のテス、――ここには旧家や伝統的因習ににともなうビクトリア期の虚栄に関するイロニーが批評として通底しているのだが、虚栄に翻弄される無垢な娘と云う意味で副題の――「清純な女」の意味がある。
 『テス』上巻に関して言うならば、忘れがたい箇所が幾つかある。そのなかでも僅かに三つほど選ぶとなれば、一つ目は、先の記事に書いた、巻頭の村の娘たちの祭りを描いた、古代の女神の祭典をも彷彿とさせる場面である。これについてはこれ以上書かない。
 二番目は、おそらく本書の白眉とも云える、死に逝く幼子を、洗礼名を受けられなかった、――いいえ、不義の子であるがゆえに自らの手で聖水で浄めて墓地に葬る一連の場面である。暗く、絶望的で、陰気で、陰惨であるべきはずなのに、後光に輝いている。それはおそらくキリスト教の神ではない。キリスト教の神は幼子を祝福することを拒んだのであるから。むしろここに描かれているのは、19世紀の自然主義レアリズムが描く無垢で貧しい乙女の肖像に重ねて、零落し、流竄の運命にある、古代の神々の嘆きなのである。トマス・ハーディの文学が歴史的なイギリス文学の伝統と歴史を踏まえながら、キリスト教伝来以前の地層にまで到達している、文学の根の深さを証しているいるものとも言えよう。優れた文学とは、単に現在の時制に立脚しているだけではなく、歴史と伝統を踏まえて書くものなのである。そのまごうことなき見本を私たちはトマス・ハーディの文学に見ているのである。
 本書上巻の第三章に当たる「持ち直し」は静謐な、アダージョ楽章のような美しさに満ちている。さり気ない農場牧場主クリック親方とその妻を描く豪奢は、その生き方が慎ましく素朴であるだけに、古代的な威厳に満ちている。薄幸の乙女テス・ダービフィールドの生涯において最も幸せな時間が流れたのであろうか。この農場でテスは運命のようにエンジェル・クレアに出会う。
 それ以上に印象に残るのはテスと乳しぼりの作業に従事する同僚の三人の娘たちである。彼女たちもまた秘かに名家の出のクレアに愛と憧憬が愛交じり合った感情を抱くのだが、そういう意味でテスの競合相手と云うよりも、その控えめさ、慎ましさに於いて、ちょうどボッティチェリが描く『春』を祝福する三人の女神のように、現実の利害は異なっているのに、テスの美しさを際立たせ賛美する役割を果たしている。彼女たちもまた、零落した古代の女神たちなのである。
 
 トマス・ハーディの文学の特質は、歴史と近代を踏まえた古代の復活がある。その射程は、決してあからさまにではないが、近代社会とキリスト教倫理に対する根底的な批判にある。ハーディはかかる物語と文体を確立する上に、自らの地の文体に地層としての歴史的文献を重ねて語ると云う複雑な作法を確立した。ハーディ文学の織目は繊細と緻密を極め、読む人の感度に応じて、素養と教養に応じて伸び縮みする自在な、比類なき超越としての文学に到達しているのである。