アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア 「お気に召すまま」 アリアドネ・アーカイブス

シェイクスピア 「お気に召すまま」
2012-02-16 09:09:26
テーマ:文学と思想


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  読んだことはなくても何処かで聴いたことがある、という意味では、いかにもシェイクスピアらしい作品の一つとは言える。
 今回改めて読み直してみて、最晩年の「テンペスト」にシュチュエーションが似ているのですね。一方は絶海の孤島にあるとされる想像の島ですし、この作品に於いてはアーデンの森という、特性化された森です。特性化されているけれどもそれは象徴性を帯びていて、どこにでもありそうでそうでない特権的普遍性を帯びた場所なのです。また、この作は「夏の夜の夢」との関連性をも思わせます。

 基本的には、父親と娘のお話し。「テンペスト」では追放された貴族の父親が魔術を使って実弟と取り巻きの宮廷に復讐するお話です。最後は魔術も魔法も何もかも、一人娘が普通の娘として生きるために全てを放下して断念すると云う、哀切なお話です。ここに云う魔法とは、もしかしたらシェイクスピアその人にとっての演劇人生そのものだと云う穿った見方をすれば、それがそのまま人生のイロニーとなりえているいるところがあの作品のみそです。父親が大活躍するお話です。
 「お気に召すまま」の場合は、娘が変装して大活躍します。父親は成すべきことは何事もなさず、存在することだけで価値があると云う風な、中国的な意味での大人の風格を持った存在です。劇中一度も喜怒哀楽の感情を表さない不思議な人物です。あるいは太陽のように中心にどっしりと鎮座しているがゆえに、人々の悪意を挫き、時間をかけて幸運を熟成させる、そうした特殊な才能を持った人物と云えるでしょう。これはシェイクスピアの理想像、彼の実像はどちらかと云えば「テンペスト」の父親に似ていると云えるでしょう。気象や天変地異までも自由に操れるほどの魔術とはその全能性ゆえの讃嘆の対象であるよりも、書かれてはいないのですが、彼がこの世に対して向けた絶望と苦悩を、そして哀愁の陰惨さを彷彿とさせるものが感じられるのです。そこまでの真迫性を持って読まなければ最後の乾坤一擲の思いをこめて擲つ魔術の意味が読み取られないと思うのです。

 例によってこの作に於いても、エリザベス朝における女性を男性が演ずる意味を考えました。「ハムレット」のように実弟フレデリックによって王座を追放された娘が仲の良い従妹の相談相手として宮廷に居残り、しかし年ごろにもなればその温情的処置がその輝くような娘の傍に置くと却ってわが娘の美質を損なってしまうことを感じた纂奪の王であるフレデリック公爵から追放を宣言され、それならあたしもと、一緒に従妹ともども仲良く逃げ出してしまうと云うお話です。
 そして、その逃げ出した場所と云うのが追放された元公爵が暮らすアーデンの森という訳です。これにはオーランド―と呼ばれる青年の反目する兄弟同士のお話しが絡んで、最後は公爵フレデリックもオーランド―の兄オリヴァーも悔悛しておしまい、という他愛のないお話です。
 このお話しの過程で、変装したヒロインのロザリンドが男性になり、森の中で遭遇した一目ぼれの恋人になるオーランド―の会の話し相手になる親友として振る舞い、最後は本当の姿を父親と恋人の前に表し、目出度く結ばれると云う恋のお話です。これに羊飼いたちの恋の鞘当のお話も出てきて、如何にもプーサンの絵画を見るような牧歌的な色調の仕上がりになっています。

 この作品で注目したいのは先ほど少し説明しかかったオーランド―の三兄弟のお話です。長男はこの劇では敵役を演じるオリヴァーです。末っ子がヒロインであるロザリンドと結ばれるオーランド―です。そしてその間になかなかに味のある二男を演じるジェークィズという青年が出てまいります。話せば愚痴と皮肉とこの世への呪いです。教養と才知はあるのですが彼の不満は自分の才能が世に用いられていないと云うことがが根本にようです。もし、仮に演劇人として大成する前のシェイクスピアにこのような時期があったろすれば、彼の悩めるシュトルム・ウント・ドランクの時期の自画像であったのかも知れませんね。

 森の公爵はかれの鋭すぎる機知と才知と皮肉を窘めます。ジェイクィズはそれが談笑の段階にとどまる限り誰に迷惑をかけるわけではないと、その正当性を反論します。しかし閉ざされた内に籠った思いは昇華されることがないならば、目に見えない形で毒素を撒き散らしているのかもしれないのです。元公爵が言わんとしていることは、才能を持てるものはそれを生かすことが出来ないならばそれ自身が悪である、ということなのである。たとえ何事もなさず隠者のような生活を送ったにしても。そう云う意味で元公爵とジェイクィズは表裏の双子のような存在なのです。日本でなら荒み霊、和み霊、と言うのでしょうか。

 才能は、半ば神から与えられたものである。才能あるものはそれを生かす義務のようなものがある。ウィリアム・シェイクスピアが若き日を回想した痛恨の物語とでも言うべき、不思議な読了観と余韻を残す戯曲である。