映画 ”恋に落ちたシェイクスピア” アリアドネ・アーカイブスより
この映画は、シェイクスピア時代の実像とも虚像とも分からない部分を、主として ”ロメオとジュリエット” を劇中劇に仕立てることで構成されている。当時の舞台や居酒屋の風景が再現されていて楽しい。当初スペクタクルがらみの活劇が現行の ”ロメオとジュリエット” の悲劇に収斂していく過程を、一方ではシェイクスピアと豪商の娘の悲恋劇として、他方ではその芝居好きの娘が変装して演じる現在進行形としての舞台風景を交えながら、交差やすれ違いを、一つの劇作品が興行として成功する過程の中に同時に描きこんでいる。シェイクスピアのファンでなくても十分に楽しめる映像になっている。
この映画を見ながら、シェイクスピアの時代は女性が舞台に上がることが出来なかったことが分かる。そうするとややこしいのは、シェイクスピアの喜劇においては、しばしば劇中で女性がやむを得ない事情によって男性に変装して行動する。有名な例は ”ヴェニスの商人” のポーシャなどがあげられるだろう。”十ニ夜” はかかる性の変換劇の成功した事例のひとつである。しかし、本当は女性であるのに男装して行動する人物を、さらに男優が演じると云うのであるから、頭が混乱しそうである。台本を読むだけではなかなかに感じが掴めない。この映画では、商家の芝居好きの娘が男性と偽ってオーディションに応じ、劇ではロミオを演じるとしてある。つまりシェイクスピア時代の設定とは逆になっている。その後、やっとすったもんだのドタバタの顛末の果てに、万策窮したシェイクスピアがプレイングマネージャーとしてロミオを演じ、ジュリエットの方はこれも結婚式の馬車から抜け出したヴァイオラが即興的に演じるということで、つまり地のままを演じることになるのであるから ”演技” を越えた ”演出” になっていた、と云うのが映画の落ちである。
大変によくできた映画なのであるが、気になることをひとつ。
気になるのは、この設問では、芝居や舞台の外に真実の愛と云うものがあって、演劇と云う表現形式はそれを正確に再現することが出来るのか?という問いと同値であるように受けたられてしまう。むしろ現実の世界では得られないからこそ芝居にひとはそれを求めるのではないだろうか。そうした演劇的空間と現実の不思議な逆転関係がこの映画では問われていないような気がした。