アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディ『帰郷』・2 ありあどね・アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディ『帰郷』・2
2019-02-26 11:01:48
テーマ:文学と思想


 トマス・ハーディの『帰郷』は影絵のような、影たちの物語である。つまり、主要な登場人物たちの誰もが、真に自分自身たり得ていない。
 「帰郷」とは、何であるか。表題の意味する如く、何ものかになり得るために人は旅立ち、何事かであり得る物語を成就するために人は「帰郷」するのである。ところが花の都パリで宝石商として大成功を納め何ものかになり得ていたはずのクリㇺ・ヨウブライトは、恋においても、家庭人においても、社会的栄達においても、何ものにもなり得ずに終わる。彼は観念だけが先行し、自分自身が見えていない。その上作者自身がクリㇺの清貧の思想と生き方を賞賛するものだから、今後も彼が真に目覚めると云うことはないだろう。
 明察と明敏の賢夫人とされる、クリㇺの母親ヨウブライト夫人はどうだろうか。明晰な知性を有し、誤ることのない彼女は完全主義の見本だろう。しかし彼女は、自分自身はともかく、周りのものを幸せにできない。それは彼女が悪いのではなく、周囲の者たちの自己責任の能力に帰せられる課題かも知れないが、彼女は明かに『テス』に出てくる牧師夫人の、子供を救うためには如何なる教条も投げ捨てると云う勇気を欠いているのである。
 彼女の姪のトマシン・ヨウブライト、既に書いたように、人形のような彼女はあらゆる主体的な意志を欠いて、出来事に遭遇しては翻弄されるだけである。その彼女が、子を産み、子を育てると云う自然的な行為のなかで、次第に自分の意志と云うものを見出していく。
 彼女と結ばれることになる、不思議な旅証人の紅柄屋ディゴリ・ヴェン。彼はなにものかになり得ることを阻まれた存在である。それは持って生まれた階級制であったり社会的偏見であるわけだが、克己のひとである彼には最後には豊饒が訪れる。しかし社会的成功と安定を持ってその達成感故に何ものかになり得たとは言えない。
 何ものにもなりえないと云う『帰郷』の基調テーマは、デイモン・ワイルディ―ヴにおいて典型例を見出す。彼の実存を特徴づける存在の様式とは、無いものを求め、得たものを生存の様式としては育てることができないと云う、ロマン主義者のジレンマである。彼はかって村の女神ユースティシアと恋人関係にあり、得たものは見劣りするの見本通り、清純無垢の見本であるトマシン・ヨウブライトに気持ちを動かす。固定化された愛の情動が重たく感じられるがゆえに、彼は無味乾燥な貞淑なだけの乙女との婚姻を果す。結果は幸せなものではなかった。炎のような過去の愛の焔に憧れつつ、逡巡と直情の炎の門を潜りながら、恋人の死の契機のなかに自らの在り方を瞬時的に見出す。彼が自分自身であることは、死ぬことによってでしか見出されなかったのである。しかも彼の死生観は、死期も厳しいキリスト教近代主義の倫理と論理の立場から裁断を受けなければならないのである。彼の実在は、生前においても死後においても社会から許容されるものとはなりえない。
 原野に篝火を焚き、荒野を走り抜ける自然の女王、ユースティシア・ヴァイ、彼女は自分が何者か分からない、自らを見失った自然である。彼女はある時は好色漢ワイルディ―ヴにその答えがあるように思え、ある時はパリ帰りの知識人志望のクリム・ヨウブライトに恣意的な希望を重ねてそれを恋愛感情であると勘違いする。彼女は最後まで自分が誰かと云うことが分かっていないのであった。彼女以外の者は誰でも、彼女こそは荒野の女王であることを当然のことのように知っているのに。彼女はなにものであるかを知らず、何ものにもなり得なくて、狩りだされた獲物のように、文明の手前で死んでいく、テス・ダーバヴィルのように。
 彼女は追いつめられて選んだ死の尊厳のなかに、彼女自身であることの理由の片鱗を見出す。