『羊をめぐる冒険』を読む・下 アリアドネ・アーカイブスより
『羊をめぐる冒険』を読む・下
2012-11-12 22:58:57
テーマ:文学と思想
「羊」とは、何の寓意なのだろうか。
先記の川本三郎は、60年代を熱く覆った青年たちを捉えたイデオロギーではないかと推察し、加藤典洋もまたそれに賛意を表明している。どうしてもこの世代としては、自分たちの青春物語を”鼠”の物語に読みこみたいのだろう。私も同世代だから気持ちは分かる。
川本たちの想像は外れてはいないけれども余りにも自分たちの経験に引き寄せていて狭く解釈しすぎていると思う。
「羊」とは、この上なく不自然な行為や考え方をそれこそは「真理」であると云い張るキリスト教、若しくはそれに支えられた西洋社会の寓意ではないかと私は思う。
これは右か左かと云う事ではなく、突飛な想像かもしれないが、若き日の岸信介と60年代のある種の青年像に構造的な類似性を感じることもある。岸の計画経済的なテクノクラート的な考え方は、社会主義に類似した構造を持っていると指摘されることもある。
「羊」が、キリストを象徴的に意味することは、西欧社会では常識である。なぜ、この点に今まで誰もが言及しないのだろうか。
鼠とは、「羊」つまり西洋的なイデオロギーと自爆的なテロに殉じると云う意味で、イスラム原理主義によるテロリズムの先駆をなしていると考えることも可能なのである。
{羊」をめぐる鼠と主人公の冒険は、それなりに予言的で興味深くもあるが、私たちは『風の歌を聴け』における”鼠”像の変容に注目しなければならない。
『風の歌を聴け』の「歌」とは、もの言わぬ死者たちのことだったろうと思う。鼠とはその象徴的な寓意であった。その、小さき者、心弱き弱者がいまや、「羊」を相手に自爆テロを敢行する「英雄」に様変わりしているのである。
川本や加藤の読み方は、このような読みである。
こうした読み方の限界は、例の「耳の女」の解釈が出来ないことである。
「耳の女」とは、何の象徴的な寓意であるか?
「耳の女」こそ、『風の歌を聴け』の「4本指の女」、『中国行きのスローボート』の中国系の女子大生のなれの果て、だったのである。
彼女が、『羊をめぐる冒険』の中で、一番肝心なところで消すのは、作家村上春樹の関心が、小さき者、社会の片隅で生き死にする心弱きものへの関心から、ごく普通の読者に移行したからにほかならない。
適当にクールでホップな村上春樹的な人間像と、4本指の女の子や中国系の女子大生が如何に似ていないか、を考えて欲しい。
「耳の女」は、姿を消した後、どうなったか。
『羊をめぐる冒険』に出て来る道北に存在するとされる「魔の山」は、小説内の描写にもあるように、悪路が何時間も続きスピリチュアルな地獄への通路が口をあけているような道なのである。思いつきで女一人が帰れるような容易ならざる道として描かれている。しかるに主人公は彼女の失踪を鼠から聴いて特段の「感想」すら持つことはない。むしろ女の死を予感すべきところで村上春樹はこれ以降も活用する「健忘症」を発揮する。
「耳の女」は、加藤典洋が正しく推測したように、山小屋の近くの土の下で眠っているのだと思う。
こうして「殺される女」としての「耳の女」は、『ノルウェイの森』に於いては、ヅヅキ君や直子のように、殺害する手間を省いた、自殺願望の強い男女として描かれることになる。