アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』と男性本位の思想 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』と男性本位の思想
2012-11-25 13:37:18
テーマ:文学と思想

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・ ダンス・ダンス・ダンス、とは、死の舞踏という意味だと思う。村上春樹の六番目の纏まった作品、小説と云う言い方に迷う。幻想的な作風と云う意味では、『羊をめぐる冒険』に一番近い。実際に主人公も登場人物も、共通している。幻想的な作品と云う意味では、作家が考える幻想の領域とリアリティの質が顕著に表れる。

 この作品では六人の人間が死ぬ。死ぬ、と云うよりも死ぬことになっている。人間と云っていいのか、記号と云うべきか迷う。村上春樹ならそれを記号と読んでもらう事を望むだろう。しかし六人の死者とは、何か。作者の弁を借りれば、『羊をめぐる冒険』でお馴染みの”鼠”、耳の女(この作品ではキキ)、娼婦のメイとジューン、意味不明のディック・ノース、そして完全無欠の五反田君、そして最後の一人としてユキの死が暗示されているところでこの作品は終わって終わっている。

 しかし、耳の女キキとメイとジューンは同一実体の別名であるから一人として計算して良いなら五人、死が暗示されているユキを入れても五人と云う事になる。しかも、五反田君――これは独断と偏見で云う訳ではないが、実は”鼠”の分身であるから、これも二人で一人である。鼠と五反田君の関係は単なる影や分身ではなく、ユング心理学で云う補償作用、つまり一個の人格が成立するためには不可避的に定立してしまわざるを得ない、ペアとしての存在なのである。ちょうど物の板の上に存在するためには、自重に抵抗する反対向きの力によって釣り合うように、一方が存立するためには他方を要請する!
 つまり、死者は三人、未来形として四人と云う事になる。あるいは何人でも良い、任意の数であると云う気がする。この小説にはもう一人の重要人物、『ノルウェイの森』で云えば”緑”に相当する、ユミヨシさんと云うホテルの受付嬢が出て来るが、この人物と前記のユキとの関係は、鼠と五反田君との関係とパラレルになっている。つまりある一個の存在が存在するために必須な条件は、それがペアであると云う事が村上文学の場合重要である。ちょうど善なるものと悪の存在がそうであるように。善と悪、生と死、現実と幻想性、村上春樹の描く世界は単純明快にゾロアスター的である。

 ”鼠”なるものが何であるのか、”羊”の正体は何であるのかは村上の小説を読んだだけでは分かり難い。と云うのも、作者自身が一旦造っては壊し、壊しては造ると云う試行錯誤の状態にあるからだ。つまり作者自身にも解っていないようなのだ。
 例えば『風の歌を聴け』の鼠は、60年代の学生運動の周辺に居た人間の一人である。彼の誠意は裏切られ生きる目標を失ったと云うのが当初村上春樹が与えた人物像であるが、時代経験をもっぱら被害者的に受け止める感受性の質は、――と云うか永遠の蹉跌型の青春像は、村上の歴史的理解の水準と云うものを言外に象徴している。
 第二作『1973年のピンボール』では、ピンボールマシーンと云うゲーム世界の徒労に実存を解消する生き方が推奨されている。この小説で初めて209,209と記号で呼ばれる娼婦?たちが登場する。この記号たちが『風の歌を聴け』や『中国行きのスローボート』で描かれた、時代経験の波間に消えていく、もの言わぬ者たち、つまり死者たちの後日談であることはいままで巷間に指摘されたことはない。何のことはない、人間存在を記号で呼ぶ摩耗した感性の質を、クールでありモダーンであると勘違いしたのである。
 第三作『羊をめぐる冒険』では、”鼠”の人物設定が大きな変換を遂げる。凡庸でもあれば平凡な個人的な青春の傷口を舐める他知らなかった酒場に屯する青年が、何と時代を裏で操る”羊”たちと対決するヒーローとして登場する、ウルトラマン並みの変身である。しかし多勢に無勢、鼠は羊が自分に乗り移った瞬間を見て、つまり羊に魂が乗っ取られるまでの僅かな時間を利用して自殺し、自死することで羊を巻き添えにしようとする。この結末は、何となくその頃流行ったオカルト映画『エクソシスト』の最後の場面を思わせる。そしてこの作品から出て来る”羊”なるものであるが、批評家・川本三郎等は60年代の疾風怒濤の時代に生きた青年たちを操った理念や狂気のようなものを想定しているが、それは団塊の世代の感傷を読みこんでいるものであるにすぎない。ここは北海道に存在するとされる桃源郷のような山奥の村の明治以降の羊毛畜産の歴史が語られているのであるから、明治以降我が国に流入した近代主義もしくは西洋文面の象徴と考えた方が良い。羊なるものとは、言うまでもなく西洋社会に於いてはキリストの象徴であり、犠牲の羊の象徴、磔刑と云う人間以下の最低の階層で死んだものこそ、存在の最高のレベルでの神の子たる存在であったと云う逆説、つまりこの上なく不自然何ことを最高のことのように云うキリスト教なり西洋文明の逆説的理念性を暗に示唆しているのかもしれない。
 ベストセラー『ノルウェイの森』は、前作の幻想性をこの上ない現実のラブストーリーとして書き変えたものである。ここにはもはや鼠なるものは登場しない。直子、キズキと云う個体名に変奏されている。『羊をめぐる冒険』との違いは、直子、キズキは60年代の記憶の象徴とされていることである。彼らは自殺願望の強い人間群像として形象化される必要があった。『ノルウェイの森』で作家村上春樹の中で何かが大きく、意識的に転換した。それは過去を禊の川に流し、生者の世界を確保すると云う「国民作家」としての変貌であった。60年代の「重い」政治的経験を引きずっていた者に、免罪符のようなものを与えることが出来ると信じたのである。この小説には「レイコさん”と云う極めて重要な人物が登場するが、彼女の住まいは京都の北の雪深いサナトリウムである。年輩で皺だらけの彼女は不思議な魅力を漂わせていたとあり、後に頼まれもしないのに東京に出現する。彼女は首都でワタナベ君を相手に人知れぬ時代の禊をする。禊の次第は大嘗祭の形式を踏まえた最後の晩餐の図柄の上に上書きされ、この上もなく反道徳的で不敬な描写の一つである。全身が皺と襞に覆われていたと云う意味は全身が性器で覆われていた、と云う意味である。性技を駆使する禊払いは「四度」行われたと記載があり、三度に一を加えた慎重さで「過去」は留めを刺される。
 そして本作『ダンス・ダンス・ダンス』なのであるが、鼠は出てこない。代わりに五反田君が新たに登場する。五反田君と鼠(”僕”)は対照的に造形されている。『羊をめぐる冒険』の感傷的なヒーローが、本作では同時に殺人者であったことが、最後のどんでん返しのように明らかにされる。心優しき悩める青年が、実は殺人者であった、しかもジキルとハイドのように、肉体を抜け出た魂が本人も知らないところで殺人を犯してしまう、と云う設定になっている。ユング心理学の補償作用の原理を用いて説明すれば、口当たりの良いことばかり言う人間が本当は怖いのだよ!と云う意味かと解釈しておく。
 しかし「耳の女」とは露骨に言ったものである。耳が形態的に何の隠喩であるかを想像することは難しくない。耳の女の系譜に、メイ、ジューンと云ったコールガールが結びつくのは偶然ではない。もしかしたら、ユキやユミヨシさんもまた、この系譜に連なるものであるかも知れないのだ。実際に本作の終わりで13歳のユキの死は予告されている。
 村上春樹が女性一般をこうした物象化した、「高度資本主義」の眼差しで見ていることもまた巷間では指摘されていないようだ。エロティスムとは少しもロマンティックな観念でも概念でもない。厳密に言えばエロティスムは対象の側にも見る主体の側にも存在しない。命あるものを「もの」として見る、物象化の世界の誕生とともに出現するのである。

 『ダンス・ダンス・ダンス』、長い割には内容のないこの長編小説は、結局どう云う小説なのだろうか。問題作『羊をめぐる冒険』の中で消化不良のまま消えてしまった「耳の女」の後日談を手掛かりに構想されたこの小説は、その過去の痕跡を探す為に再び札幌の同地を訪れる。いるかホテルは無く、そこには超豪華なドルフィンホテルと云う二十数階の高層ホテルが建っている。そこで主人公の”僕”はホテルの受付嬢に注目し、もう一つの不自然な偶然からユキと云う、母親に於いてきぼりにされた十三歳の少女を東京まで送って行くことになる。それからの長い紆余曲折の退屈な記述が本書なのであるが、最終的には何時”僕”がこの二人の少女を「もの」に出来るか否かと云う読者側の興味でしか書かれていない。予想どおり最後にはユミヨシさんをものにし、流石に十三歳のユキは関心の圏外にあると云う書き方がしてある。村上ワールドの”僕”は、誰からも好意を持って受け入れられるが、実際は性を「もの」として見る「三十四歳」の男の眼差しには大衆演劇的な頽廃の影が濃い。
 この小説を始めとする村上の作品に見られる男性本位の見方は、性愛の行為に於ける受け身で著しい消極的な人物設定とパラレルな関係にあるだろう、歌舞伎や一頃の東映時代劇がそうであったように。政治に於いても恋愛に於いても主導的、行動的であることは好まれない。なぜなら『ノルウェイの森』の悪魔払いによって手に入れた泰平の世の安定と恒常性に対する重大な脅威を意味するからである。泰平の世を何と寿いだか。本作で何度も繰り返される「高度資本主義の世」と云う記述の仕方がそれを象徴している。村上が「高度資本主義」?に何を読み取ったか。本書の中で幾度となく「それは経費で処理する」と一つ覚えのように繰り返されるが、村上が「経費」の理解以上のものを読みとったかどうかは分からない。

 一般的な理解としては『ダンス・ダンス・ダンス』は高度資本主義社会に対する抵抗の書とされている。しかし表象された限りに於いての作品は、構造的には別のものを意味している。作品の形象性は作家の主観的意図を裏切るのである。
 
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