アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹と60年代「後」 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹と60年代「後」
2012-12-08 13:05:34
テーマ:歴史と文学

・ 意外と注目されていないのが初期の村上に見られるスタンス、時代との間合いの取り方です。初期に『風の歌を聴け』と並んで『中国行きのスローボート』と云う短編集があるのですが、在日の中国人の先生との束の間の関係、アルバイト先で出会った中国系の女子大生、そして昔のクラスメイトとの再会にまつわる束の間の儚い、言い換えればじれったいほどの心の逡巡が描かれています。デヴュー作『風の歌を聴け』においても、従来は、なにゆえか語り手の「僕」が主題的に語られることはなく、副主人公である「鼠」などに投影され仮託され、過剰に思い入れされた「青春の蹉跌」型の青春像に対する理解が殆どであるように思います。「鼠」は作家から目立ってステロタイプ化された人物として紹介されているし――だから「鼠」などと綽名で呼ばれるのです――、読者を小説の世界に導くための取り持ち的な登場人物、せいぜい口当たりの良い「おまけ」のようなものです。そんな容易い近代小説の約束事をプロの方々がまんまと信じてしまう、と云う処に村上現象と呼ばれるものの固有な不思議さがあるようにもわたしには思われるのです。

 ところが『風の歌を聴け』や『中国行きのスローボート』などを読んでみるとまるで違ったふうにわたしには読めました。主人公の「僕」は育ちの良い素直な青年なのですが、その優しさが裏目に出て何時もそれに見合った他者の代価を受けない。10・21の新宿騒乱の夜、半ば保護半ば拾うようにして連れ帰った無一文のティーンエイジャーの女の子と一週間ほど同居し、その後少女は失踪するのですが、たまたま見つけた置き手紙には「最低の男」などと云うことが書いてある。興味深いのは、初期の村上の主人公は、このような理不尽な処置にあっても怒らないのです。腹を立てないばかりか、それが当然の自分の処遇でもあったかのように、自然と納得してしまうのです。この心優しき青年の存在に通底している哀しみのようなものとは何なのでしょうか。ところがわたしと同世代のプロの評論家たちこのように読まなかったのです。この点が何ともわたしの側から見れば何とも不思議であり不可解なのです。

 村上の小説の主人公が共通に見せる無気力さは、単なる個人の性格や個性と云うののではなく、実はアメリカンドリームと60年代の若者たちの反逆の時代が終わった70年代初めの青年たちを一様に覆った閉塞感、その反映ではなかったか、と思いあたったのです。

 『風の歌を聴け』に代表される流行やブランドを散りばめたポップな感覚、実はディレク・ハートフィールドの挿話、――こうもり傘と電話帳を手にエンパイヤステートビルの屋上から飛び降りたと村上によって空想された「大作家」ハートフィールドの挿話が象徴するものは、実は言葉を生業とするもの一般、「文学」への軽蔑だったのです。村上春樹の小説が受け入れたれた背景に、文学や言葉への軽蔑感があったと云うのは、当時まだ残存していた「文壇」では、もしそれに気づくことが出来ていれば皮肉な出来事の筈でした。

 当時の村上のインタヴューなどを見ますと、旧来の伝統や慣習と切れていることへの奇妙な自信がうかがえます。文体が翻訳調の平板なものであることを指摘されても、彼には勢いがあります。むしろ自分をそう評価する旧来型の小説家に一切影響を受けなかった点に自分の新しさがあると言わんばかりです。面白いのはここで「文壇」型の批評家や小説の大家方が示した反応で、しぶしぶと村上の言い分を認めているかにみえることです。わたしには村上の自身よりも、先生方の自身喪失の方に興味を持ちました。

 実際に『風の歌を聴け』などを読んでみますと、いっけん雑多で統一性を欠いた文章群の断片が与える効果は、従来にない新鮮さがあります。言葉や思想への不信を語ったあの時代に固有の青春像を描こうとするならば、例えば高橋和己のような端正な文章ではなく、言語の破壊とも思える『風の歌を聴け』の切り刻まれた無残な文体が必要であったことが納得されるのです。

 村上青年が言おうとしたのは何だったのでしょうか。
 それは言葉を奪われた者の声なき孤愁の歌でした。だから「風の歌を聴け」と云うのです。シュトゥルム・ウンド・ドランク-疾風怒濤と云うのでしょうか、ドイツロマン派の時代以来、「永遠の」青年は時代の証として自らの苦渋と寂寥を語って来ましたが、何を語るにせよその前提にある「言葉」の特権性に寄りかかって語る姿勢をこそ村上春樹は問題にしていたのではないでしょうか。言葉によって自らを弁明しない、声なき小さき者の歌の存在をこそ聴け、と彼は初めて語ったのです。
 これは弱者であることを盾に、大いに時代の思潮を雄弁に語った同時代の遠藤周作や先記の高橋和己などとは違う点です。

 村上文学を支えた読者層が従来の読者層とは異なった、雑誌「ブルータス」や「ポパイ」などの基盤の中から生まれて来たと云う指摘がありますが、じつは無関係な事象ではないのかもしれません。「文学」や「言語」そして「学問」と云う特権性に拘らない文学は可能か、と彼は問うていたのです。「文学」と云う垣根の外に文学はなにゆえあってはならないのだろうか、と彼は問うていたのだと思うのです。

 実はこれと同質の問いが、60年代の学生たちの反乱のモチーフの繰り返しにもなっていることは奇妙な偶然の一致とばかりは言えないでしょう。
 造反有理、大学解体、彼らは学問や文学のあることの妥当性の意味を問い、支配のシステムとしての教育のあり方を問い返しました。
 この60年代の学生たちの叫びの奇妙に世俗化した形が、実は村上春樹の小説において、旧来型の文学や言語に対する「嘲笑」や「軽蔑」となって現象しているのです。
 社会現象としては、この学生たちの叫びの奇妙に捩れた形が、彼らの主観的意図を裏切るような方向で、大学の産学協同と云う形で展開し今日に至ったこと、大学の権威と云う枠を取り払い、学問の自律性と云うよりも単なるビジネスの世界の数値目標に対する到達度として評価されると云う、文科省-大学に収斂する下部教育システムと云う、極めて管理社会的、社会主義型評価の一元化を生んでしまったのです。
 文学や言語の特権性の解体、大学の自治の放棄と産学共同路線、文壇と文学界の先生方の自信喪失、これは共通に起きた60年代「後」の出来事とパラレルな関係にありました。重すぎる課題を、いっそ軽めのポップの感覚で異化的に語る、その世俗版、当世浮世風の若者気質とでもいえそうな浮世絵風の物語だったのです。

 村上春樹の60年代とは、「鼠」や直子に仮託された60年代の挫折した青年たちの死に至る病、その後日談を語ったからではありません。旧来の「文学」の「外」にある歌をこそ聴け、と云う新しい時代のメッセージが聞こえるかどうかです。そのメッセージが聴く能力があるかどうかという問題なのです。『風の歌を聴け』とは、未来に向けた、違ったそう言う意味でもありました。

 未だに、『風の歌を聴け』の表題が正しく意味するものに言及した村上春樹論にわたしはお目にかかっていないような気がします。「風」とは何でしょうか。「歌」とは何でしょうか。多くの初期村上春樹論がここを素通りしているように思います。

 村上春樹の文学は「正しく」評価されているのでしょうか。春樹の読者は「正しく」読んでいるのでしょうか。