アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラス『タルキニアの子馬』 アリアドネ・アーカイブスより

デュラス『タルキニアの子馬』 アリアドネアーカイブスより
2012-12-24 16:35:38
テーマ:文学と思想

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 たぶん、1953年のこの小説はデュラスの最高傑作であるのではないかと思う。すでに半世紀も前に発表されたこの作品について、今さらそれが傑作である由縁を語ったにしたところで、何事を付け加えることができるというのだろう。
 夏のヴァカンスに来た二日間を描いた男女五人の物語、そこには息子を地雷除去の作業でなく咲いた老夫婦がいて、二人の運命に纏わりつくような男寡の乾物屋の亭主がいて、我慢できない女中とホテルのオーナーがいる、と云う何処と言って際だったところのない舞台設定である。子供のいる主人公のサラはもう随分以前から夫婦生活が破たんしかかっているのを感じている。主人公サラの夫の親友のルディには妻のジーナがいて、結局二組の夫婦関係は似たような水準にある。そして行きずりの謎の男が出現して、二人とも何故かしら共通の運命のようなものを感じるが、何事もなかったかのように二三日の小旅行をして一旦はこの避暑地を離れるであろう、その旅先の途中にトスカーナ地方のエトルリアの遺跡、「タルキニアの子馬」を見るかもしれない、毎日の繰り返しが今後も続く様でもあり、何か新しい旅立ちの様でもある、そんな予感の中で小説は終わっている。常に、永遠の待機状態の中で終わる、かかる意味に於いてこの小説も他の多くのデュラスの小説と同様変わりがあるわけではない。

 デュラスの小説の上手さや人生観、世界観の深さについて語ったところで何なろう。そう言うことなら発表から半世紀を閲したいま、語り尽くされたことであると云うに等しい。私が特に注目したいのは、豊かな人間造形である。その豊かな彫琢の腕前についてである。サラとジャック、ルディとジーナと云う二組の夫婦の間にディアナと云う独身女性がいる。随分先まで読まなければ二組の夫婦に挟まれた彼女の位置が分からない。親友関係にあるジャックとルディがマルクス主義について論争する部分――つまりヘーゲルに寄って有名になった「奴隷の弁証法」について論議する場面があるが、かっては彼女が政治的理念を共有した同志かそのなれの果てであることは想像できる。控えめに書かれているので分かり難いのだが、おそらく彼女の知性はどの男たちに比べても高い。この物語を通じて彼女は登場人物たちに起こる出来事の全てを知っており全てに通じているにもかかわらず、簡単な応答や聞かれれば半畳を入れるだけで最後まで目立った活躍をしない。つまり冷静な視点人物のように設定されているのだが、実は自分を含めた六角関係の中にしっかりと、利害の立場を扇の要のように締めている。つまり彼女とジャックはもう随分前から愛人関係にあり、語られることはないけれども登場人物たちの間では公然の秘密なのである。

 もちろんデュラスの小説は時に饒舌であるが、登場人物たちは寡黙である。この小説では空白を埋めるかのように乾物屋の亭主がまるでストア派の哲学者のように、愛の超越性と地上の愛の諸形態について語る。そこには夫婦世界の凡庸さを埋めるために事業欲の中に自らを埋葬した妻の姿があり、形骸化した夫婦生活を抱き続けた夫の時間がある。ここで語られるのが家伝の宝刀と云うか、抜かずの刀の伝説である。つまり夫は自分以外のために使うための最後の一撃を奮う瞬間を待ち続けたが、その日は到来することはなかったと云うのである。
 
 六人の人物たちがこの挿話に関心を抱くのは、抜かずの宝刀の隠喩が実は「革命」を指しているからである。そして親友関係にあるジャックとルディがマルク主主義的な激論を交わすのも「革命」の在り方を廻ってなのである。何かについてその理由を知りたがり論議の中心にあることを自明視するジャックの在り方に、常日頃からルディは押し付けと恩着せがましさ以外の何物をも感じていないのである。かかる彼の観念性こそ、本当は夫婦生活関係の危機の底にあるものかもしれないのである。事実最終章になって、読者は二人の夫婦関係を親友として最も危惧している彼の心境を知ることになる。「ジャックがちょっとでも苦しむようなことがあるとして彼をそんな目に会わせないため・・・・・たとえぼくなら、大勢の人間、千人だって犠牲にして惜しくない。それを君に言いたかったんだ。」(p288 )
 ここまでくると親友と云うより同性愛、あるいは一時的にせよ運命共同体にあった者同士の同志愛に近いものを想像しても的外れではないだろう。

 そしてルディとジーナのじれったいほど上手くいかない関係は、実はルディとジャックの同志愛の裏返された変形なのである。毎日言い争いをする二人は食べ物と云う最も根強い本能的な趣向によって結びつけられている。二人の間に一度も離婚と云う現実への疑念が生じないのは、実はジャックとの同志愛の裏返された変形であるからである。彼がサラとジャックの夫婦関係を心配するのは自分たちの不思議な夫婦関係の維持を望むからにほかならない。そして恐らくは、サラと云う女性がジャックにとってそうであるように彼にとっての意中の、秘められたマドンナのごとき存在であるかも知れないのだ。かれはちょうどシラノ・ド・ベルジュラックのように傍目で見ているだけで十分なのである。ここにも永遠に満たされることのない「永遠の待機状態」がある。
 そうして恐らくは、これは小説には書かれていないことだが、一方的なルディの片思いと云うのではなくて、本当は偶然によって二組の夫婦関係が出来る前であるならば、組み替えた方がいっそう自然な夫婦関係を想定することも可能なことを思い出させる。

 出発は遂に訪れることはない。対岸の岸辺に立つダンスホールで虚しく待つ「本来の恋人」(ジャン)にサラを待つ必要はないことを告げにルディは渡し船に乗る。決定的瞬間を虚しく待った男は二三日避暑地を離れるであろうし、また残された五人も――つまり二組の夫婦とディアナもまた、「タルキニアの子馬」を見ながら最終目的地パスツゥームの古代史跡を観に行くことになるのだろう。そこにはギリシアを思わせる古代の海を渡る風が吹いているだろう。小説はここで終わっている。

 さて、読み終って何に一番感心したかと云うと、デュラスの小説の出来栄えではなく、戦後フランスの重厚とも云える人間関係であった。わたしは戦後日本の人間関係の平板さを思うと、彼らが一様に抱く倦怠感や絶望感よりは、彼らの人間関係を取り巻く時間の重厚さと陰影の深さと云うもに羨望に似た感情を抱く。ルディのジャックに対する男同志の友情もそうだが、サラとルディの男女関係を超えた異性の友情と云うのも美しい。そして視点人物のような全てを見通すかのようなディアナの二組の夫婦と自分との間にある独特の距離の取り方も美しいと思った。六人の中でどちらかと云うとネガティブや役割を負わされているジーナにしても将に見せ場と云うようなところで彼女は見どころを発揮する。それは息子を亡くした悲嘆の底にある老夫婦を見舞う最後の晩の出来事なのだが、無表情であった老婆が初めて彼女が毎日届けてくれたレシピについて尋ねるくだりである。 

”「奥さんにお訊ねしたかったんですけど」と彼女がだしぬけに言った。「あの貽貝は、ドマトの前に煮るんですか、それとも後ですか?」
 彼女がこんな、くつろいだと言ってもいいような調子で話しするのは、子供が死んでからこれが初めてだった。ジーナは、体全体を震わせた。!(p271 )

 ジーナは、ディアナのようなインテリではないから、知性によって受け止めると云う術を知らないから、体全体で感動を受け止めるのである。

”帰る途中で、急にジーナは泣きだした。ルディは理由を訊かなかった。彼は彼女を抱き、二人は、みんなの後について、恋人同士みたいに、そのままの恰好でほてるまでゆっくりと降りて行った。”(p272 )

 「・・・降りて行った。」とあるのは、老夫婦が山の中腹に住んでいたからである。

 旅の行きずりの男(ジャン)の描出も優れている。サラは、熱く退屈なだけに避暑地に嫌悪を隠さないが、大洋を控えた広大な河口は好きである。二人が運命の出会いと云うか、精神上の同型性を予感する場面も、美しい。

”「奇妙だなあ、こんなにあなたが好きになるなんで」と彼は言った。
 (中略)
 彼は、彼女を抱きしめた。そして、彼女から一歩離れた。彼女は動かなかった。彼らは顔を眺めあった。サラは、彼の目のうちで河が光るのを見た。”(p142)

 それにしても、恋人の瞳の中で「河」が光る、とは美しい表現である。

 子供の扱いも秀逸だし、単なる狂言回しとしての女中の描き方にしても、なかなか一筋縄ではいかない陰影がある。彼女はほぼ登場人物の全員から人間関係を反故にされているが、実は描かれたままの愚鈍な女ではない。ディアナと同様に、冷静にドラマの動向を静粛に見届ける、いわば読者の代表とでも云えるような位置にいるのだ。

 小説の最後のページで、行くはずだったダンスホールに行くことを断念して家に帰って来たサラを迎える彼女には、知性の冴えとすら言ってもいいものすら感じさせる。

”「かわいそうに」と女中は言った。「怖ろしいことですわね。こう云う話って。結局は引き上げる方がいいわ。このことを考えると、自由に息もつけませんでしたもの・・・・・昨日の晩でも、ダンスでみんなこのことを考えていたんですよ。」”(p298 )

 不発弾の処理に失敗して老夫婦の息子が死亡した日以来、村は特別のこととしてダンスホールの開催等を控えて来た。その事件の一部始終に重ねて、この二日間の二組の家庭と六人のドラマの「一部始終」を暗にほのめかしているのである。

 『タルキニアの子馬』は、人物たちの描き分けが正確で、その配列が将棋のこまのように無駄がなく揺るぎがないことを感ずる。