アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鈴村和成『ヴェネツィアでプルー外を読む』 アリアドネ・アーカイブスより

鈴村和成『ヴェネツィアでプルー外を読む』
2013-02-01 13:10:53
テーマ:文学と思想

http://ec2.images-amazon.com/images/I/41VHEH4EQ5L._SL500_AA300_.jpg

 

・ 鈴村和成のこの書は、水を機縁とするプルースト探究の物語である。そう言えばコンブレの二つの道には水の音が響いていたし、バルべックにも潮騒の音が響いていた。失われた時冒頭の眠れない夜の輾転反側にはヴェネツィアの幻影が出て来るし、鈴村氏に寄れが、失われた時を彩る様々な街の背景には通奏低音のようにヴェネツィアが潜んでいるのだという。

 そう言えば、ヴィスコンティの映画で有名になった『ベニスに死す』では主人公は海上からサンマルコ広場に乗りつける。映画『旅愁』で有名になったラグーナに長い尾を引く汽車の煙はプルーストの時代以降のことで、本来の玄関口は海側であったことを歴史書や解説書の類は語っている。その海の玄関口に聳える様に二本の柱があって、これが有名な十字軍時代の遺品で、なにやら西洋と東洋の境界線を意味しているかに見えて旅人が遥かな旅情を味わう場所になったらしい。

 

 著者は、この二本の円柱を失われた時の時に抗う二つの象徴として捉える。失われた時では遠く離れた事象が、不意の偶然とも云える共振=コレスポンダンスを生じて鳴り響くのだが、それをこのヴェニスの円柱に例えて、「スワンの家の方へ」のプチット・マドレーヌの挿話と、最終巻「見出された時」のサンマルコ寺院の舗床の段差に例えられる。前の挿話がコンブレと語り手の少年時代の全てを水中化のたとえのように華麗にも幻想的にも出現させたように、後の挿話は語り手の愛をめぐる物語のすべてを、すなわち生涯のすべてを再現させる開始のファンファーレのように、或いは時を告げる大伽藍の複雑な鐘の音のようにしじまに響き渡るのである。

 鈴村氏の功績は、ヴェネツィアと云う重要な場面ではあるのだが、それに比例してコンブレやバルべック、あるいはパリなどの固有な場所に比べて必ずしも紙面が割かれていない場所が、実は陰の幻想の都市として、失われた時の背後に幻想の都市のように、あるいはライトモチーフのように、沈黙の音階として鳴り響いていたと云う点を明らかにした点である。

 水の都ヴェネツィアは、失われた時のヒロイン・アルベルティーヌのもう一つの表情でもある。バルべックの海岸を水煙を挙げて登場する第二巻「花咲く乙女たちの陰に」から失踪の果ての事故死まで、ヴェネツィアとアルベルティーヌは、一方がある場合は他方は陰に潜んでいて両立しない。小説の後半で語り手が長年の夢であったヴェネツィア行きを敢行するときはアルベルティーヌへの愛が醒めて彼女が失踪した後であり、何よりも彼女と初めて出会ったバルべックそのものがヴェネツィア旅行の代償であったのだから、念が言っている設定になっているのである。
 
 水路と路地と橋で細分化された迷路のような水の都ヴェネツィアとは、実はサンマルコ広場に屹立する二つの円柱の間に架けられた幻の時の掛け橋、プルーストの人生そのものだったと云うのである。

 この書は美術書の案内も兼ねていて、カルバッチョの『悪魔に取りつかれた男を治癒するグラドの総主教』や『巡礼団の殉教と聖女ウルスラの葬儀』などを始めとして、ヴェネツィアを遥かに超えて、フランドルやアムステルダムに水の都の由縁を求めて、プルーストの軌跡を追想する旅でもある。
 残念なのは、一枚の図版も添えることが出来なかった点であろう。

http://art.pro.tok2.com/C/Carpaccio/80martyr%5b1%5d.jpg
カルパッチョ 「巡礼団の殉教と聖女ウルスラの葬儀」