アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『アメリカ人』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『アメリカ人』
2013-06-08 12:28:43
テーマ:文学と思想

 


ムリーリョ≪聖母マリア≫ ルーブル美術館


・ ヘンリー・ジェイムズの文学の中でも比較的有名で良く読まれている本、――『アメリカ人』。どう云えばいいのだろうか、例によって善良なアメリカ人の実業家クリストファー・ニューマン――変な名前!――がいて、新大陸での富みと栄華を尽くしたので、アメリカにないものを求めてフランスに行く、そこで出会った世紀末の社交界、そこで出会ったアメリカには決していないと思われるタイプ、クレール・ド・サントレ伯爵夫人、一目見るなり求婚し、一時はアメリカの富の力で婚約披露までこぎ着けるのだが――ニューマンはクレーとの間に真実の愛が成就したと思っている――、それをまるで出入りの商人との約束でもあったかのように反故にされて、失意なのかに沈む。その背景には決して明らかにされないヴェルガルド家の血の匂いのする犯罪の歴史があり、それをヴェルガド老侯爵夫人に四十年来使えている小間使いから聞きだすところにまで成功するのだが、肝心の伯爵夫人は世を儚んでカルメル修道院に入りこの世との交際を一切経ってしまう成り行きの中では、復讐はおろか何が原因でなにが起きたのかと云う真実のドラマの追及さへ覚束なくなって全てを断念してしまう、と云うお話しである。物語の最後に、ニューマンの高貴さと云うのが出てくるけれども、ヨーロッパ文化の伝統と慣習と頽廃の中から辛うじて人間としての矜持を救いだした、と云うような形にはなっている一篇のロマンである。

 例によってジェイムズは絵にかいたような嘘と云うか、ステロタイプ化された状況設定から文庫本で400ページを超える大作を紡ぎだす。この書の特徴は、まず主人公の設定、アメリカ人の実業家、西海岸のゴールドラッシュの時代に生きてそこで超富豪とも云える資産をなしパリに乗り込んでくるのだが、作者のジェイムズのように特殊な情感教育がなされたわけでも学歴があるわけでもない。美的感受性についてもルーブルで三文画家の模写に数千フランを払ってしまうほどだから、最初から芸術作品の観照能力についてはお手上げだと本人が自任しているほどである。つまり作者のジェイムズとは全てが正反対の人物造形になっている。
 そうした、富を別にすれば平々凡々たるお上りさんが社交辞令と伝統的な柵だけが卓越した社交界の権謀術数にまんまとしてやられる、と云うお話しである。しかも折角突き止めた旧家の秘密もそれをちらつかせるだけで、積極的に公的な場所に打って出るよりは、あくまで下品なことには手を貸さないと云う自らの矜持の保持を選んでしまうので復讐も復縁の可能性も何もかも諦めてしまうと云う、中途半端なお話しである。こうした話を読むとわれわれ日本人は通常アメリカ人はドライであると信じ込まされてきているので、どちらが日本人的かと思ってしまうほどである。違うのは、お人好しの人間は日本にもアメリカにもいるだろうけれども、お人好しさ加減をここまで客観視して描ける作家は日本にはいないと云うことだろうか。

 この単純な話を聞いて誰もが感じるのは、”なあ~んだ!”と云う感じだろうが、日本の小説を読む読者は読書の代価として”教訓”を得ないと済まないから、ヨーロッパの伝統的な社会の文化的厚みとその底に潜む頽廃と、伝統こそなけれナチュラルなアメリカ人の生き方を描いた成長物語として読むと云う読み方が定着してきたのである。
 しかしわたしのみるところ『アメリカ人』と云う小説は、人の良さに付け込んで悪辣なパリの貴族社会が仕組んだ三文喜劇、つまり喜劇の裏に潜んだ悪なるもの、――人間の尊厳を揺るがしかねない根源悪の正体を次第に明らかにし、対決していく物語であると云う風に読めるのである。ヘンリー・ジェイムズのような老獪で達者な心理的ロマネスクの大家を前にして、根源悪との対決など、如何にも洗練されない素人っぽい批評の手口だと思われるかもしれないが、真実は意外と単純なものなのである。

 ジェイムズの描く”西部劇”は、街道の通りで対峙した二人が拳銃をぶっ放す、と云うようなものではない。もしこの世の中に信義と云うものがあって、信義に従って考えれば次はこうなるであろうと予想しつつ我々は生きているののだが、それを別名、渡世と名付けたりする。渡世の慣習律とはそれなくしてはこの世が成り立たないような人間の実存の条件である。
 ところがジェイムズの文学が繰り返し描くところによれば、信義に添って考えた場合、こうなるであろうと云う予想をとことん逆手に利用し尽くす生き方が存在すると云うことにある。もちろん悪者と呼ばれるものは一般にそのように生きる。悪漢と呼ばれるものは信義を裏切るだけでなく、犯罪的な手口で命に手を掛けることすら珍しくはない。しかしそれは道徳律と云うものを仮定してそれに反抗すると云う意識を持つ限りに於いてそうなのだと云われているにすぎない。ジェイムズの描く悪とはそうした悪事一般ではなくて、道徳的な生き方が卓越した人間だけに可能な、こう云う事だけは出来ない、したくないと考える人間だけに仕組まれた罠のようなものなのである。これは既にこの世にあると仮定された慣習的な倫理や道徳に対する反抗ではない、倫理や道徳の元になるそのものが揺るがされかねない根本的な事態なのである。それは人間性への挑戦なのである。ジェイムズの文学が犯罪には無縁であるのに何処か背徳の匂いが濃厚に立ち込めてくる不気味さの秘密は、そうした彼の人生観と世界観にある。

 ヘンリー・ジェイムズが描き、後にフランツ・カフカが描くことになる、悪が悪として現象しない根源悪の世界とはどう云う世界なのだろうか。現在のところわたしはそれに一括する名称を見いだせないでいる。ヨーロッパの社会は基本的人権と云うものをまず認め、その前提の上に個人関係が、あるいは個人と社会の関係が築きげられた社会だと云われている。しかしジェイムズの世界は皮肉でウエットな感傷を一切払拭しているが、それは適度な距離感を前提とした近代ヨーロッパの個人主義の世界ではない。もし信義に基ずいた世界と云うのがあって、あの人はこうしたことは出来ないだろうと云う行動原則の逆手をとって興味本位の宮廷戯曲を書きあげる、――『アメリカ人』の主人公ニューマンをして最後に”そうしたあり方は自分には不愉快だ!”と云わしめる――そうした社会、ジェイムズが描きカフカが直面した”現実”とはどのような現実なのだろうか。

 ジェイムズがヨーロッパの古典貴族の悪徳と頽廃として描いていたものの正体は、本当のところは何のなのか?わたしには新大陸と旧大陸の文化的な狭間で生きたジェイムズの云々・・・と云うような文明論的な文学論は随分人の良いものであるように聞こえる。ここからむしろ新開地に生きるアメリカ人の人の善さを結論として導いて来るとなると、何処を読んだらそんな読書感想文が書けるのかと云う気分になる。
 ヘンリー・ジェイムズを読む場合わたしが推奨する読み方は次のとおりである。すわなち実存の物語として、ドストエフスキーの同時代者として、フランツ・カフカの先駆者として読むべきではないか、と思う。
 ジェイムズの文学がもつ不気味さや不屈さの感覚は――『ねじの回転』で特徴的になるのだが――個人と個人を隔てていた礼節の関係が失われ、信義や道徳の価値をそのまま認めて、それを一個の宮廷劇に仕上げる”笑い”の感覚にある。イエス・キリストは求道者としてありとあらゆる人間的な苦に絶えたが、ジェイムズの世界に不屈に木霊する”笑い”の世界にだけは堪え得なかったのではないのか、と云う気がする。ジェイムズの文学はいっけん、軽薄な状況設定に見えて、実は厳粛ののであるから、陰鬱で沈鬱な印象を与える。不気味で背徳的な世界である。しかしいわゆる犯罪とか悪事と云うのものとは無縁である。この点もカフカと共通している。しかし旧約的な陰鬱でもあれば憂鬱な世界風景を超えて聞こえてくるのは、書かれてはいないのだけれども空耳のように哄笑の響きが耳につく、と云う不思議な気がわたしなどするのだが。
 ヘンリー・ジェイムズの世界に描かれている現実とは、単に信義や道徳がないがしろにされていると云う点ではない。個人の信義や礼節が基ずいている基本になるもの、つまり近代主義的な個人概念の外側の界壁、自他の距離の調整感覚がマヒしてくるような、内であって外である感覚、外なるものが内にもあると云う、フランツ・カフカの描いた現実と実に等質なものを感じるのである。
 それで一般に信じられているようには、カフカにもジェイムズの文学にも、いわゆる”内面”と云うものはないのである。ここに云う”内面がない”とは、信仰の基いとなるものがないと云う意味である。神があるとかないとか云う以前の受け皿としての内面がないのであるから、ジェイムズの世界は神なき時代の風景と云うことが出来るのかもしれない。内面がないと云うことを内面的な感受性で受けとめる習慣のない日本人には、この辺の意味されることの重大性の意義を、われわれ日本の社会では分かり難い場面の一つであるのかもしれない。