アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ヨーロッパ人』――ニューイングランド気質について アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ヨーロッパ人』――ニューイングランド気質について
2013-06-10 01:10:10
テーマ:文学と思想

・ ヘンリー・ジェイムズを読む驚きは、読む度毎に、またかと思わせるような類似の設定にも関わらず、新鮮なのです。同じ切り口から、どうしてこんなと思えるような風景が展開されて、しかもそのどれもが甲乙つけがたいほどの作品なのです。

 『ヨーロッパ人』は『アメリカ人』と同時期に書かれた作品であり、ドラマの設定が丁度逆になっています。『アメリカ人』では、アメリカ人実業家ニューマンがヨーロッパを訪れる話でした。『ヨーロッパ人』では、二人の姉弟・ユージニアとフェリックスがニューイングランドのボストンを訪れるお話です。姉弟は、早く云えば孤児の高級浮浪者と云った感じでしょうか。アメリカ出身の姉弟の両親は早く亡くなり、祖国との親類縁者との関係は一切断たれたと云う設定になっています。姉の方はドイツのさる王国の王子――世継ぎではない、と身分違いの結婚し、今は王国の宮廷の事情から離縁を求められている。弟の方は決まった仕事もなくボヘミヤ地方を放浪しながら、主として肖像画を書きながら辛うじて糊口を凌いでいると云う状態である。早く云えば知的ルンペンなのだが、その二人がヨーロッパで食いつぶして何やらの秘策を秘めて古い親戚の従妹たちを訪問すると云うことからこの物語は始まる。

 姉弟は、かかる見え透いた下品な意図にも関わらず、例によってジェイムズは知ってか知らずか、一言も語らない。男爵夫人と呼ばれる姉の方は内向的な性格であり、弟の方は楽天的な性格である。しかし共通するのは、彼らが真の意味での精神的な貴族であると云うこと、自由と引き換えに何かを要求されたとするならば死をも選びかねない人間であると云う点だろう。
 この二人を迎えるのがウェントワース家とその知人たちであって、ニューイングランド的な気質の人々である。ニューイングランド気質とは、ジェイムズによれば、利己主義に対する絶えざる警戒であり、自己を超えた理念の裏付けがなければ行動を起こせない人々である。分かりやすく云えば、自己を卑下するというのが最大の美徳であって、この世とは神の審判を前にして只管神に感謝し、あらゆる楽しみを断念することであると信じる人々である。断念すると云うよりは、あらゆる楽しみを罪悪視して感じる人々である。
 ヘンリー・ジェイムズの文学の面白いところは、――あるいは日本人に近づき難いと感じられるとすれば、それは通常欧米と一括される両者を対比する場合に、アメリカの方に自由があると考えがちなところである。ヨーロッパは伝統的な文化に囲まれた保守主義に対して、アメリカのフロンティアスプリット以来の自由・平等の原理が卓越した国民性と考えがちなのである。ジェイムズの文学を読む楽しみは、かれの世界観が日本人の常識的な世界認識とちょうど逆になっている点を理解する点にある。なぜなら文化と呼ばれるものは、ある程度は階級的ヒエラルキーと相似の関係にあるとするならば、少なくともフランス革命期まではヨーロッパの政治思想や家政学を支配するものは貴族階級の論理であった。紳士淑女がどうあるべきかなどと云う外交辞令術などはそうだろう。貴族階級に於いては子供は里子に出されるか乳母が世話をするものと考えられていたから、今日で云う家族の概念はなかった。むしろ20世紀の今日に於いてファミリーの概念を席巻させたかに見える風土の元型は、アメリカンスタイルにあったこと、アメリカもそのごく一部、ニューイングランド清教徒的なものの考え方にあったことは、地方史的認識に留まって今日に於いてもよく認知されていないようである。ちなみに戦後を画くしたかに見えたアメリカ映画の流行が、世界的規模における無意識のレベルにおける何のための伝道活動であったかを考えてみればよいだろう。自由、平等、友愛の基いになる、共同体からは比較的独立した家族の概念を、まるで太古の昔からある普遍的なものででもあるかのように流布させると云うのが、アメリカ人のミッションなのであった。
 『ヨーロッパ人』とは、ニューイングランドアメリカの中でも最もアメリカ的な特異な地方が、同時に世界とも等しいと考えられたような世界に闖入して、近現代そのものとも考えられるプロティスタンティズムの世俗化された論理と、ヨーロッパの伝統的な貴族社会の中に流れる自由の論理との対比を描いたものだと考えて良い。

 さて、話を『ヨーロッパ人』の方に戻すことにしよう。

 ウェントワース家には二人の姉妹シャーロットとガートルードと一人の弟クリフォードがいる。親戚以上に親しくしているアクトン家には兄妹ロバート・アクトンとリディがいる。これに出入りのユニテリアンの牧師ブランド氏がいて、この6人と、主人公姉弟の二人を加えた8人が何れも結婚適齢期であり、まるでニューイングランドの伝統的な舞曲かロンドのように、恋のさや当てと婚約祝祭劇がこの物語のざっとした粗筋と云える。
 筋の展開は意外性を孕んでいてそれなりに読ませるが、仔細については省略する。結論を云うと、ここから4組の婚約が成立するのだが、二人の「ヨーロッパ人」の内弟の方のフェリックスはガートルードと婚約しアメリカへの帰化する道を選ぶが、姉のユージニアの方はロバート・アクトンの懇願にも関わらず、生活の基礎とて覚束ないヨーロッパ社会に帰っていくことを選択する。それは彼女がアメリカと云う国を、ニューイングランドと云う風土を愛さなかったためでも理解しなかったためでもない。むしろ期待以上の歓待を受けてそヨーロッパにはない居心地の良さを受けて初めて二人の姉弟は家族と云うものの郷愁を理解するのである。ニューイングランドには、ここに於いてこそと思えるほどの人の暮らしと云うものがあった。にもかかわらず、全てがあるように見えてもただ一つないものがあった、それは生活を享受しようとする意志であり、自由の感覚であった。
 この点は対比的に描かれているのであるけれども、弟のフェリックスに於いても同様である。彼はアメリカ人を愛し、ガートルードと婚約するのだが、それはニューイングランドに住み着くためではなかった、彼はガートルードの中に自分と共通する、ある種の卓越した性格を読み取り、彼女を世界と云う広い場所に誘うのである。それを受けてガートルードは、自分は今まで眠っていたのだと概観的に回想する。プロテスタンティズムの論理を逃れて、『ワシントンスクエア』のキャサリンが求める権利があると云うことすら心の内面に押し殺してしまったもの、『デイジーミラー』や『鳩の翼』のデイジーやミリーが大陸に求めつつも挫折したもの、人生は終わってしまったものと観念し人生と云うステージから降りかかった『大使たち』のストレザーが全てのキャリアを擲って夢みたものなのである。
 ガードルードとは、ヘンリー・ジェイムズ的なヒロインの誕生する瞬間である。ジェイムズの好む絵画で云えば、ボッティチェリ作≪ヴィーナスの誕生≫の足元の白い泡立ちを想像したらよいだろうか。