アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ヘンリー・ジェイムズ短編傑作選』 アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ヘンリー・ジェイムズ短編傑作選』
2013-06-16 15:49:01
テーマ:文学と思想

 


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・ 本書に収録されているのは、以下のとおりである。初期から晩年の作品まで、個性的な品揃えだと云ってよい。

・「パンドラ」(1884年
・「パタゴニア号」
・「コクソン基金」(1890年代)
・「ジュリア・ブライド」(1908年)

 「パンドラ」については先に取り上げた短編集と重複するので簡単に済ましたい。解説によれば、これは有名な『デイジーミラー』と対になるべき書かれた短編であるらしい。後者が難解なジェイムズの文学の中にあって代表作とも言われ一般に広く膾炙されたのと比較して、この作品の知名度は遠く及ばない。後者がヨーロッパを訪問したアメリカ娘の話であったのとは正反対に、ヨーロッパから本国に帰るアメリカ娘と青年貴族の儚い慕情を描いたものである。つまり伝統的なヨーロッパの社会にはない新しきタイプの人間像が描かれていると云う意味で、元型的な作品と云ってよい。なお、この小説を読む楽しみは、19世紀末期のワシントンと政界や社交界の様子を伝えている点である。ポトマック川の河遊びなど牧歌的な風景が展開されている。

 「パタゴニア号」は如何にもジェイムズらしい不気味な作品である。
 この短編集に採用された作品のどれもが全体を読んでしまわないうちには分からないように――全体を読んでも解らない!――、一人の貧しいアメリカ娘が許嫁の待つリヴァプールへ逝く船旅の間に入水自殺すると云うショッキングな物語である。
 ショッキングであると云えば内容もさりながら、語り手と称する「わたし」なる人物の不気味さは例えようもない。要は有名な『ねじの回転』のように作者は真実を語っているのかどうかを疑いながら読まなければならないのだが、「わたし」の悪意と意地悪さは歴然としている。船上の船旅と云う閉ざされた状況の中で恵まれない不幸せな女の、意地悪な噂の種として自殺まで追い込んでいく物語に、どこまで「わたし」が関与していたかは不明であるが、彼女を自殺に追い込んだ船旅と云う劇中劇の複数の登場人物たち中でも、終始紳士面をしているにしても、「わたし」が一番破廉恥で罪深いことは明らかだろう。
 いわゆる”世間”と云う名の、匿名性の暴力のおぞましさを描いたと云う点で、ジェイムズらしいとも云える一篇である。この作品には、他のどの作品にもまして救いと云うものが見当たらない。暗示と無言の誘導を得意とする「わたし」が罰されることがないだろうと云うのもこの作品を救いのないものにしている。

 「コクソン基金」――ジェイムズの朦朧態の見本のような作品で一度読んだ範囲では理解したと云う気がしない。弁舌は爽やかだが文章にすると案外つまらない当代の文化人サルトラムに、奇妙な偶然の紆余曲折を経て最終的にコクソン基金と云う法人が立ちあげられ最初に彼がその該当者として年金を支給される、と云うお話である。
 この話と同時並行して、この基金の曰くつきの謂われが、裕福なアメリカ娘と金目当てのイギリス政治家の婚約と破談と云う話が進行する。破談の理由は、アメリカ娘の祖国の実家が破産して持ち来たらすべき持参金がほとんど皆無になったと云う見え透いた理由であるが、例によって英国上流階級の建前上決してそのことは口にされないから、口実を求めて様々に事象から事象へと彷徨う。
 最後に、この不運なアメリカ娘人にもイギリスに住む伯母が莫大な資産を残すのだが、これには遺言者の希望として故人を顕彰する文化基金のようなものとして役立てることが希望されていた。希望されていたと云うのは、個人の配偶者(伯母)の恣意にも任せるような書き方がしてあったからである。そして伯母は姪の自由裁量に任せるように遺言をして亡くなる。
 さて、不運な娘はそれを持参金として活用できればイギリス貴族との婚約を復縁することが出来る。しかし彼女は心の逡巡の後に自らの利己的な意図よりも個人の意思と公共的なものの考え方の方を優先させる。見あげた行為と云うべきなのだろうが最終的決定に至る道筋は鮮明さを欠き、基金の最初の誉れの受給者になるサルトラム氏と云うのが先に述べたように一流の人物とは云いかねるような人物であったために、その基金の折角の効果、最初のはなでとしてはやや点睛を欠くものであったことは否定できない。

 「ジュリア・ブライド」――ニューヨークも今日のような大都会になる前は、とりわけアップ・タウンと呼ばれていた住宅地域に於いては、狭い世間と云うか、人と人との柵
によって人間の行動がかなりの部分を規制されていたようである。
 ここに、ともども自由に恋愛の歴史を繰り広げた母と娘がいて、母親の方は遠隔地で相変わらずのように離婚と結婚を繰り返しているようなのだが、娘の方はそろそろ自身の美貌も賞味期限が近付いたと思ったか、名門の青年と付き合い始めている。デートの場所がメトロポリタン美術館であると云うのが、彼女の今回の交際に賭けた意気込みを語っている如くである。
 その為には、自分自身の過去を知っている知人を探して、塩梅良く自分の人格を保証してもらうために”嘘をついて欲しい!”心当たりの縁故知人を探すのだが、最後は昔彼女と相当の関係があったにも関わらず、その後ヨーロッパを経験し、洗練されて帰って来た昔の恋人を信用して打ち明けたら、なんと娘が現在育てようとしている名門一族との引き合わせを約束されてしまい、利用されてしまう、と云うものである。なぜなら彼らの間に恒常的な関係が成立することになれば自ずから彼女の過去も知れ渡ってしまうであろうからである。
 自分自身の思い描いた薔薇色の未来が音を立てて崩壊するのを予感しながら、彼女に言えることは次のようなイロニー的な表現である。
「彼のことをだだ最高に誇らしく思うのは、ジェリアの素晴らしい性格の際立った特徴であった。」
 耳を疑うような記述であるが、「パタゴニア号」の薄命なアメリカ娘の受難史を経由しているだけに、少なくとも社会から「規定される」側に甘んじるだけではないと云う、アメリカ人女性の自立を晩年のジェイムズは望んでいたかのようである。

 アメリカ人女性の無垢なる自由を求めた生き方は、その紆余曲折と濃淡や浮き沈みはあれ、一貫していたと言えよう。「パンドラ」で自由奔放なアメリカ娘を描いたジェイムズが、最後は現状の重さと厳しさに耐えるようなジュリアのような女性に至るのは感慨がある。本作のみが固有名詞の題名を持つと云うことも偶然ではあるまい。