アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジェイムズの『ロンドン生活』他・(下)アリアドネ・アーカイブスより

ジェイムズの『ロンドン生活』他・(下)
2013-06-20 00:44:27
テーマ:文学と思想

 

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・ 『ルイザ・パラント』(1988年)と『フォーダムの館』(1904年)について述べる。

 前者は、今では遠い昔の過去になってしまった恋の思い出話に、手酷い裏切りを受けたと感じている男が、とあるスイス湖畔の避暑地で面影の痕跡さへ失った昔の恋人に再会する。彼女はあの出来事の後は思ったほど恵まれた境遇にも恵まれず、夫に死に分かれてからは美貌だけが取り柄のルイザと云う娘を連れて欧州各地を放浪している、と云う設定である。ヨーロッパの貴族社会では、違った意味での大陸浪人と云うのであろうか、貴族や裕福なブルジョワの縁故知人を頼って渡り歩くと云う、早く云えば穀つぶし達の存在が普遍化した事象としてあったようである。彼らのリベンジとしての方法と云えばせいぜい美貌の娘を生んでしかるべきところに縁づけるか、場合によっては陰謀や策謀を企むことすら稀ではない。要するに下品な意図を秘めて生きる社会の余計者たちである。

 語り手の「私」は全ては怨讐の彼方にあると思っている。しかしパランと夫人は、青春の日の裏切りがその後の自分自身の生涯に陰に陽に影響を与えたと観じており、自らの自己本位の生き方を学んで師匠以上の成果を挙げかねない娘に成長してしまったと思っている。
 それで青春の日の裏切りが随分手酷く応えたのか独身を続けている語り手がたまさかの休暇の相手として伴って来た甥を、どちらがどちらを誘惑したのかは微妙だが事の成り行きを阻止しなければならないと云う信念に取りつかれる。
 それである日、若い二人の恋人がボート遊びで夜も遅く帰宅したのを切っ掛けに、夫人は方針通りに、信じられないことだが、若い甥を相手に自分の娘が如何に下劣であるかをあろうことかかき口説いていて、破談に持ちこむ。
 夫人がここまでの義侠心というか正義観に駆られると云うのも解せず何とも不可解であるが、語り手が今もなお独身生活を続けていることが一抹の、過去における自分自身の行動が何らかの形で今日までも影を落としていることにある種の感銘を受けたのだろうか。
 しかし、真実は夫を亡くして後の長年月に渡る貧乏生活が骨の髄まで沁み込んでしまい、お金が無いと云う見放された願望や惨めさゆえに、精神に異常をきたしたと云うことはないのだろうか。つまり襤褸切れのように昔捨て去った恋人の前にひさめで惨めな姿を晒すことはどんな感じであろうか。語り手の見るところ、娘のルイザは際立った美貌の他にはこれと云った母親が指摘するような欠点は見出されないのである。むしろ何事も表情を変えないと云うことは、母親の苦渋を慮っての気高い行為ではないのか。
 それとも、自らの満たされなかった生涯の挫折から来る腹いせに、語り手の甥などとは比較にならない高望みに賭けているとでもいうのだろうか。そのようにも斯様にも読み取れる。なぜならジェイムズの筆は、ルイザが「何かぱっとしないが勢いに乗った事業で財をなした父親の遺産相続人」と結婚した事実が伝えられているからである。つまり富は得られても高い社会的位置は得られなかったのである。

 『フォーダム館』では、――フォーダム館と云うのは、これもやはりスイスの、とある避暑地の安ホテルで出あった二人の初老近い男女のそれそれの”縁者”が、ロンドンの社交界でデビューを果たすことになる館の名前である。ここにあえて「縁者」と神秘めかして書いたのは、男にとっては身分不相応の妻スー、社交界の花形として潜在性を秘めた妻のことであり、女に取っては美貌の娘のマチィーのことである。身分も地位もない夫人や娘が美貌と才知だけを武器に上流階級に登り付くためには、ある時期から親類縁者は邪魔になるので、世間から姿を隠させるために遠いスイスの保養地に送り込まれた、と云う設定である。
 何やら日本人には分かり難い設定であるが、社交界と云う世界があるようなヨーロッパの伝統的な社会では切実なことかもしれない。この辺が貴族社会を経験していない日本では分かり難い。
 話は、そうした同類相哀れむと云うか、似たような境遇にある二人が何時しか心を通わせるようになり、男の方はこうした現在の泡沫のような生活をそれなりに肯定するうになるのだが、女の方には成功したらしい娘から帰省を要請し許可する手紙を受け取り、悲哀の中に二人は列車の窓越しに別れる、と云う哀切な話である。つまり女の配偶者の方が幾らかましだった、と云ういことなのだろうか。
 誰もが思うことは、才気には欠くかもしれないがかかる善良な二人の男女に何が不満だと感じる人がこの世に居るのだろうか、と云う疑問である。実務的なあらゆる才能を欠いた男は今まであらゆる事業や職業に失敗してきたとある。そんな彼に女は「テイカー夫人はあなたに何の不足があるのですか?」と聴いてくれるのである。詰まらない質問だと思ってはならない。初めて男を人間として認めた会話なのである。思えば男は長い人生の旅路にあって、これに類する問いかけをかって掛けて貰ったことはあっただろうか。物語の終わりで男はやはり自分は死んでいたのか、と自分自身の社会的死を確認するのだが、実はこの時を境に常に他者から規定されることで自分自身を形づくってきた純受け身型の人間が、初めて生きるとい云う小さな可能性にむかって生きつつあった、とも云えるのである。勿論、この男の負け犬のような資質を考えると、そう単純な幕切れがあるとも思えないのだが。

 もし『ルイザ・パランド』と云う小説がわたしの解釈で良いとするならば、こんなに哀れな母と娘を描いた話はないだろうと云う気がする。詰まらぬ世間体やプライドのために幸せであり得たかもしれない知れない自らの人生を台無しにする人たちの話なのである。しかしヘンリー・ジェイムズの偉大さは、性懲りもなく下品な人間であろうとも、時には気高い生きる、あるいは理想的な人間を演じてみたいと云う欲求を払拭することはできないと云うことを語っていて改めで人生の複雑さを思う。
 『フォーダム館』のテーマは、人は社会的役割がままの受動的で受け身の人間であってはならないと云うジェイムズのメッセージである。これは日本人こそ肝に銘じるべきであると思うのだが、余りに真に迫ってその通りであり過ぎると、人はそれが自分自身のことが書かれているとは思わないものである。ジェイムズの文学が流布しない理由もそこらへんにあるのかもしれない。