アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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木下恵介の映画――『カルメン故郷に帰る』を鑑賞する アリアドネ・アーカイブスより

木下恵介の映画――『カルメン故郷に帰る』を鑑賞する
2013-06-24 01:10:10
テーマ:映画と演劇

 


沖縄戦没者追悼の日に、
偉大なる日本人映画監督木下恵介
この一文を捧げる

 


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/94/Carmen_Kokyo-ni_Kaeru_poster.jpg/200px-Carmen_Kokyo-ni_Kaeru_poster.jpg

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 1951年制作の『カルメン故郷に帰る』は日本初のカラー映画であるそうだ。高原の空を背景に白雲を吹き流す浅間山,それと対応するような鮮やかな新緑の山並みが幾度となく映画に出てくるが、色彩の発見は、同時に日本人の感性の発見であったかと思われるような記念碑的な映画である。そして主役のカルメンともう一人の都会帰り娘たちは赤と白を基調としたコスチュームで出てきて、素朴で地味な村人の色調と対比されて、まるでそこにだけ戦後の民主主義が花開いたかのような感じである。当時これらの新風景を「文化」と云う郷愁を帯びた言葉で呼んだ。
 どうしてこのような映画が、当時は別として、世にあまり知られることなく今日に至ったか、と云うことについて恥ずかしさを感じる。自分たちは戦後の映画について何を知っていたのか、木下恵介と云う男について何を知っていたのか、そんな映画の素晴らしさを語ることよりも自身の不分明さ、自分たちが侵してきた怠慢を恥じたくなるような映画である。

 長らく木下恵介を正当に評価してこなかった背景には、観客の怠慢と云うこともあるだろうけれども、松竹の女性映画の造り手と云う強固な既成評価と通念も関係していただろう。それに小津や溝口のように後継者たちを持たなかったと云う意味でも不幸なことだったであろう。特に溝口の日本古典に素材をとった映像の斬新さや、俗に小津映画と呼ばれる構図法のような映画監督の固有な個性や卓越性をそれは感じさせない、害して言えば木下映画の平凡さ、通俗性と云うことも関係しているだろう。しかしそれは木下が制作会社の言われるままの映画造りに専念したことや、観客の受容や映画界の需要と供給を第一に考えてそれを裏切らなかったと云う律義さとも関係しているだろう。しかし今回のようにデジタル・リマスター版によって復元された『カルメン・・・』のような、自らもメガホンで脚本も書き、演出法は言うに及ばず、彼本来の音楽に対する造詣の深さや映像処理についての専門性に加えて多様な映画人としての蘊蓄を傾けることが出来た作品を見ると、もしこの人により本来的に能力を発揮できる場を与えてあげることが出来たら、もしこの人にもう少し世相に抗うことのできる思想性の強さを与えることが出来たならばと云う無い物ねだりの想いを禁じることが出来ない。木下恵介とは、そう一概に評価できるような映画監督ではなかったことが理解できる。

 本作は、終戦直後の北軽井沢を舞台に、故郷に錦を飾ると称して、東京でストリッパーをしていて少しは小金が稼げるようになった娘が数日間故郷に帰って来て村人との間に起きるドタバタの喜劇である。
 娘の帰省と云う事態は通信手段もままならない当時の世相を考えると、何事も大袈裟に実情とは違ったふうに、少しづつ尾鰭が付いて、まるで新時代の文化をになった文化人か芸術家として帰って来る、と云う風に受け止められる。それで村の校長としても駅まで出迎えに出ていかざるをえないのだが、自分としても戦前戦中のおける自分たちの行為に後ろめたいとまでは言わないけれども反省の気持ちは十分にあることゆえ一方にある村民の保守的な感情をなだめながら、概ね歓迎の意向で駅に出向く。しかし彼らを一目見るなり、何と云うことか、娘とその同僚の二人の娘たちの服装を見て校長は仰天し、今後の数日間に起きるであろう出来事を想像し、プラットフォームの片隅ですっかり自分の思い違いを反省し、しょげてしまう。
 他方、娘の父親は時々稼いだ金を仕送りしてくれていることは感謝しているのだが一応小牧場主だからそう経済的に困っているわけではない。それよりも娘たちの原色カラーのハデハデの衣装を牧場で見せつけられて、村人に顔向け出来ないとと云うのが偽らぬ心情である。戦後民主主義の自由な社会になってどんな服装をしようと自由なのだが、せめて自宅にでも籠っていればいいものを、これ見よがしに村民を挑発するでもなく無意識の行動が露出してしまう、出歩く娘たちの言動を見るにつけて嘆くやら、悲嘆したついでに父親は家に引き籠ってしまう。
 娘とその同僚は父親や村の教育関係者だけでなく、そんな村人の対応に当てが外れたと感じる。と云うよりもこの少し前に本当か嘘か、父親より、娘は小さいころ木から落ちでそれから少し常軌を逸する行動が目立つようになった、と明かされる。要するに学校の成績は何時も最低で、その行動は何時も物議をかもしだし、しかし気持だけは天使のように天真爛漫に育った、少し智恵足らずの子供だったのである。
 娘たちの行動と村人の不和は、小学校の運動会で爆発する。二人が奇抜な意匠で校庭に姿を現わすと観客はグランドの方ではなく二人の方を見る。村で運搬業をしている唯一の興行主の機転で”貴賓席”に二人は納まるのだが、娘の同僚が隣の助平な興行主に手を握られて興奮して立ち上がったついでに、体に巻いていた衣装が解けて素肌の一分が見えてしまう。
 しかもこのハプニングが起こったとき、ちょうどグラウンドでは村の唯一の盲目の音楽家が運動会特別の催し物として荘重な新曲をオルガンにて演奏中であった。突然起きた笑い声に自分が笑ものにされたと勘違いした音楽家は憮然として帰ってしまう。
 悲観した娘たちは今回の帰省が何の成果も生まない無駄事だったことを実感する。それで自暴自棄になった二人の娘は相談して村で踊ってみようかと提案する。もちろん彼らの本業ストリップである。これに文化人を自称する興行主があろうことか利己的な金儲けを企んで賛同する、それも「文化」を語ることにおいて。
 これを聴いて校長は何とか阻止しようと協議するのだが上手い方策が見つからない。他方では商業ベースの仮設小屋の建設が着々と進んでいる。校長はあれ以来村人との関係を避けている父親に説得して貰おうとするのだが、それを聴いて一時は腰を抜かさんばかりに驚いた父親は、結局ここここに至ればと腹をくくって、以下のように校長を諭す。
 元々、知能の程度も低い人柄だけが取り柄の信じやすい娘が東京出でて行って出来る事と云えば知れている。そんな娘が父親のために恩義を返したいと云う今回の行為は、その行為だけを取るてみれば常軌を逸した異常な行動とも見えようが、誰にも迷惑がかかるわけではない今回の気違いじみた行為を、ましてやたった一回だけの興行をしてその翌朝には村を去っていくわけだるから、自分としては認めてあげたいと云うのである。これを聴きながら普段は人の意見を聴くのではなく教訓を垂れるのを職業としていた筈の校長が父親の述懐のを前にして静かに帽子を脱ぎ聴きいる。
 こうして自称文化演芸会、実はストリップの興行は、一人百円を聴取して大成功の内に終わる。娘は折半した収益金を父親に送り、父親はそれを全額学校に寄付する、と云う形で納まる。
 そうして別れの朝が来る。二人の娘は自分たちの言動、自分たちの行為をとおして村に微小な変化を与えたことを意識してはいない。それは幻想であろうとも「文化」と名付けられたこの後十年足らずの間日本人を魅了するkとになる戦後の夢なのだが、そんな偉大な伝道師の役割を果たしたことも知らずにこの愚かな二人の娘たちは、のんびりと、鉄道の貨物の荷台に乗せられて車上から愛嬌をふりまき、麗らかに歌いながら去っていく。しかし駅のプラットフォームだけでなく、沿線に集う人々からはまた帰って来て欲しいと歓呼と激励の声援を盛んに受ける。また、事業の成功に気を良くしたあの利己的な興行主にしたところで、どうした風の吹き廻しか、借金の形に無情にも盲目の音楽家から取り上げていたと村人の奥から非難を受けていたオルガンを無償で返却すると云うハプニングも付け加わる。万事はめでたし目出度し、なのである。

 さて、この映画のクライマックスは何処かと云うと、やはり知能の低い娘の愚行を自らの責任に於いて説得する父親と校長が対面する場面であろう。父親と呼ばれるものの何時の世にも変わらない愛情と、戦後の日本人が「文化」と云う言葉に賭けた夢みるような思いが余韻のようい伝わって来てしんみりとする場面である。
 昔はこちこちの道徳観に固まっていた校長が、ご時世がら文化と云う言葉に単純に感激し、そのあとそれを自らの愚行として、早とちりを後悔し、最後は娘たちの愚行を父親に逆に説得されて、素直に首を垂れるに至る一連の七転八倒めいた滑稽な場面も、その紆余曲折と滑稽ぶりが俳優笠智衆の持ち味を生かした演技も素晴らしい。何よりもこれからは自然な感情には敬意を払わなければならない、と大多数の日本人が信じていた時代なのである。
 勿論、主役の娘と同僚を演じた高嶺秀子と小林トシ子の歌と踊りも、衣装ともども全てが素晴らしい。全てがインチキめいて、日本の戦後の文化が何であったかを象徴するような演出である。
 あるいは、村の唯一の貧しき文化人、盲目の音楽家佐野周二が品良く演じているが、故郷を讃える彼の作曲になると云う新曲は若き黛敏郎の作曲、歌詞を木下の父、木下忠司が造っているそうだが、何ともグレゴリオ聖歌を思わせる荘重なメロディーは凡そこの映画とはちぐはぐなのだが、そのちぐはぐさが逆にこの映画を一口に喜劇とだけは言わせない、如何にも戦後らしい作品に仕上げている。つまり表面だけを見るならば無内容なナンセンス劇に他ならないのだが、この音楽のそこには不戦への想いがあり、何百万人に及んだと云う死者たちへの鎮魂の思いが感じられる。かかる不可視の音楽として、戦争のレクイエムとして戦後の青空の彼方に響かせているのである。曲は荘重で”海ゆかば”のように暗い、そしてそれゆえにこそ、浅間山は公明正大でこの映画で描かれた村人のように素朴で純朴素直で美しいのである。

 時代を評価する目が適切で、演出法が上手く、加えて色彩の技術者としての側面を持ち、芸術家の家庭に育って音楽への造詣も深いとなると、映画人としてはないを言うことがあるだろうか。それに人と人との付き合い方も上手で、商業的な興行性の才能ももっていたと云う意味で、そうした意味で損をした面もあるけれども、時を置いてこうして眺めてみると不滅で変わらないものが映像の底に浮き出てくるようなことはあるものだ。
 次回は、有名な木下の代表作『二十四の瞳』についてふれる。