アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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日本の家族映画について アリアドネ・アーカイブスより

日本の家族映画について
2013-06-11 22:39:03
テーマ:映画と演劇

・ 日本映画の中から、過去、エンターテインメントも含めて、ランダムに観てみた。選択の理由が作品としての芸術性よりもエンタメ性に重点を置いたのは、戦後の風俗としての世相を描くことに関心があったからだ。だから網羅的でもないし取り上げ方が適切であったか否かについてはご容赦願いたい。

・『オカンの嫁入り』(2010年)監督:呉美保
・『お日柄もよく、ご愁傷様です』(1996年)監督:和泉聖冶
・『涙そうそう』(2006年)監督:土井裕美
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・『家族』(1970年)監督:山田洋次
・『東京物語』(1059年)監督:小津安二郎

 『オカンの嫁入り』は、結婚適齢期に近い娘を母親が年下の30歳の元板前と結婚すると云うお話である。元板前には唯一の肉親として育ててくれた祖母死への痛切目いた行為への悔悟、取り返すことのできない痛切な思い出があり、オカンの方は物語の終わりで末期癌であったことが告げられて、この世の見納めにこの世の一番華やかな儀礼である婚礼と云う儀式で決算を付けたいと願っている。それで最終場面が石清水八幡宮の婚礼姿を描写して映画は終わる。この間に、母親の縁談話を聞かされた娘が情緒不安定になり、加えて職場のセクハラを受けて出勤電車に乗れなくなりなったり、最終的には退職をせざるをえなくなる処まで追い込まれる。つまり、自閉的な引き籠りの娘の社会復帰の物語もまた同時並行的に語られるわけである。物語の設定が不自然ならその後に続く筋の展開もまた不自然で、”極限状態”が頻出する様は滑稽感すら感じるのだが、笑ってはならない。この映画が観ていて不自然さを感じさせないとすれば、演出と役者の達者な演技力である。母と娘を大竹しのぶ宮崎あおいが演じている。
 『お日柄もよく、ご愁傷様です』は、知人の婚礼と父親の葬式、それに孫の誕生が重なった一家の慌てぶりを滑稽感をもって描いている。父親の死因は心筋梗塞で、最後に、亡き妻と出会った北海道は大雪山の避難山小屋をもう一度訪れ、生涯の思い出としてそこに妻の写真を納めたいと念じた父親が、密かに手配した小旅行を果たすことなく、知人の結婚式の朝あっけなく亡くなると云うものである。ここで関係してくるのは息子の方の父親がが知人の結婚式に初めての仲人を務めることになっており、義理立てのために葬儀は家族にまかせて式場に赴く。その間にもお葬式の同意を求める段取り次第の連絡が頻繁にリアルタイムに入りうろたえるさまが、まさに七転八倒、滑稽感を通り越して、ある意味では獅子奮迅の働きと云うべきか、式場から帰るなり今度は喪主として同時に両式場の終始を果たし、その間にも映画だからと云う絵明けではないが、長女夫妻の浮気がらみの不和や次女のボーイフレンドとの仲たがいなど、この家族にとってありとあらゆることが生じる、と云う設定である。物語の終わりで夫婦は大願を成就するかの如き大雪山の避難山小屋を訪ねる。
 『涙そうそう』は、沖縄を舞台とした血のつながりのない”兄妹”を描いた純愛物語である。母親は子連れで夜の繁華街に働いていたのだが、そこで知り合った風来坊のやはり子持ちのジャズメンと同棲する。二つの欠損家族が合流した程ないある日、流れものの男は娘を託して何処とも知れず沖縄を去っていく。その母親も急性の病気で亡くなり、死ぬ間際にまだ小学生の男の子を読んで父親代わりに妹を守って欲しいと云い残して死んでいく。こうして血の繋がりはないのに兄弟であり同時に父と娘のようでもある、と云う変な感じの兄妹が離島で、たったひとりの身内である祖母の保護の基に成長していく。ここまでの話は映画では回想場面として明らかにされているだけで、映画は先に本島で生計を立てるために働いている兄の家を妹が数年ぶりに、高校に入学するために島から渡って来る場面がら始まる。
 ここからが映画の醍醐味で、この真面目な兄によくもこれほどと云えるほどの難題や風雲の数々が重なり、最後は過労が原因で死んでしまう。本当は兄は妹を愛していたのである、切ない思いを紛らわすために我武者羅に働いたのである、念願の居酒屋を開くと云う夢も破れ、そんな悲しい映画である。
 映画の方は夫々に出来不出来があり、そのことを論じたいわけではない。興味深く思ったのは、戦後史における家族と云うものの持つ意味であった。

 戦後の日本人は、家族と云うものに特別の思いがある。
 周知のように、戦後とは不戦の誓いと象徴天皇制の告示により始まる。ここで意味される大事なことは、天皇は神であると云うような疑似宗教的な考え方へのアレルギーであり、天皇制の超越的な権威と軍事体制と云う戦前的な概念に対応するために用いる平和の概念は、余りにも無色透明であり、実際には家族と云う概念が実質的な役割を果たしたと云うことである。つまり先後の日本では、家族を論じることが国民的規模での反戦運動に等しい時期があったのである。
 ここから夥しい数のホームドラマと家族を描いた映画が放送されることになった。
 日本国民にとっては、家族を論じるとは最高概念に近い位置を論じることと等しい。その後、日本が高度成長期を迎えると、天皇制や軍事体制に変わる新たな対抗勢力として企業や組織の論理が突出して来、日本人の働き過ぎが話題になるようになった。ここでも国民の自立自存のための批判の拠点は、家族が担うことになったのである。日本では個人が主役として登場する場面はなかったのである。

 こうして家族と云う概念は、戦後的な二元論の一方の極として重要な位置を占めることになった。ここから家族は絶対的とも云える権威を手に入れることとなった。『オカンの嫁入り』と『涙そうそう』で描かれているのは、欠損家族における家族の幻想的とも云える絶対的価値である。前者の映画では世俗の儀礼としての婚礼と云う儀式がこの上ない絶対性を帯びてくる。そこから『お日柄もよく・・・』では父親が最後まで秘めていた心の秘密を家族の誰もが知らなかったことが衝撃を与える。『オカンの・・・』においても、自閉症気味の娘が紆余曲折の果てに母親を非難するのは、母親の不自然な婚約事態と云うよりも、癌を患っていたと云う秘密を自分に告げなかったことである。つまり家族は最高権威であるから秘密は許せないと云う論理がいつの間にか思想として戦後的時間の中で形成されてきたかの如くである。
 随分昔の話であるが、アメリカ映画に『マディソン河の橋』と云うメロドラマがあって、この作品では母親の葬儀に集まった家族に、誰もが知らない母親と行きずりの男とのロマンスがあったことが明らかになり、その回想的再現がこの映画の内容である。家族のだれもが知らない秘密をもって故人が旅立ったと云うことは共通しているのだが、母親をめぐるエピソードが衝撃を与えるにしても、日米では意味が少し異なる。『マディソン・・・』では、自分たちでも経験することの稀である愛の超越的価値へのロマンティックな、母親の秘密と云うよりもまるで古典にでも接するような敬意と感謝の気持ちが映画の主調をなしているのである。故人が大事なことを家族に告げなかったと云う事だけが問題にされているわけではない。
 つまり、最近の日本映画を見て感じることは、家族は国の違いを超えて大事なものであるのは変わらないながら、戦後の日本で起きているのは、家族を超えた超越的な事象の消滅、と云う事態なのである。

 そこで1959年と1970年の小津と山田の映画の場合をみてみよう。
 いっけん、日本の家族の姿を叙情的な映像に焼き付けたと云う意味で共通性の多い両監督であるが、小津にあって山田にないもの、それは超越的なるものの概念である。山田の『家族』は、60年代の日本社会のエネルギー転換と産業構造の再編成を背景に、炭鉱労働者を続けることが出来なくなった家族が長崎県の離島の炭鉱から日本を北東へと縦断して、最終的には北海道の開拓村に辿りつくまでの物語である。彼らに果たして安住の地はあるのかと云う思いで観客はスクリーンに見入ることになる。70年代に於いても、この映画が描き出す悲観的な色調にも関わらず、戦後史の過程が紆余曲折と矛盾に満ちたものでああろうとも、人々の気持ちを根底のところで支えているのはやはり家族だと云う思いなのである。
 山田の家族を支える思いは、寅さんシリーズでも繰り返し語られることになる。神なき時代の、愛の伝道師として戦後日本では神格化されたようにも見える。しかし反面、寅さんの放浪への思いとマドンナたちが微小の裏に隠しているニヒリズムは、山田がなかなかに一口では論じ切れない対象であることも語っている。

 一方1959年に小津が『東京物語』描こうとした現実は、一旦は戦争で崩壊したかに見えた日本的家族が徐々に再生する過程であり、反面、その成長の過程で切り捨てられるものがあると云う現実である。切り捨てられるものとは生き残った誰それと云う固有のものであるのではなく、第一に、広い意味で戦没した何百万人と云う死者の群れなのである。戦後日本の再生は数多くの死者を礎の上にしか築かれなかった、と云わんばかりなのである。
 ここに原節子演じる良くできた戦災未亡人の嫁が出てくる。死者の追憶に生きる彼女だけが遥々上京してきた老夫婦を労わる。血のつながりのない戦死した二男の嫁だけが何故これだけ親切に尽くしてくれるのかが老夫婦には分からない。しかし人間として在ることに理由など必要だろうか。嫁は死者への思いを通じてやがてこの世を去っていく老夫婦に感情移入しており、それが失意の老夫婦の目にはまるで女神微笑みのように思われるのである。
 『東京物語』で描かれているのは、家族を超えた何ものかである。その何ものかの中には、第一に戦没した死者たちが含まれている。第二に戦後の適者生存の冷徹な法則の中で淘汰される死者の予備軍が含まれている。彼らを弔うものとしての巫女のような日本女優・原節子の気品溢れる面影の中に、あの地上的な価値を超えた、天の蒼穹にかぎり立つ雲の墓標のような白雲のような、永遠とも云える女神の微笑を、小津は映像に定着させているのである。