言語とことば,――あるいは飲み食い的理性批判 アリアドネ・アーカイブスより
言語とことば,――あるいは飲み食い的理性批判
2013-09-20 18:41:01
テーマ:文学と思想
字数をオーバーしたために、『東京暮色』論より、分離する。
【付説:言語と言葉の関係】
「言語」によって、人は、ホモサピエンスとしての人は「人」となる。人は蚕のように自らの体内から吐き出した言語の意味文節作用の透明な繭の中で、意味文節を衣装として纏うことで、「世界」を内側から形成する。ここで用いる言語とは内在言語のことである。
「言語」とは、ヴィトゲンシュタインが言うように、「世界」の論理形式であり、実存の存在様式でもある。
それゆえヴィトゲンシュタインが、「言語」の限界は「世界」の限界に等しい、と云う時、彼は常に正しい。
それゆえ「世界」と「言語」の外側を問うことは、古い意味での「形而上学」となる。古古義の形而上学=哲学であると、彼は一時理解していた。
言語の壁が世界の限界であるとするならば、言語の壁によって覆われているものの意味を問うことは許されないのだろうか。それは形而上学であると云うことで済ませられるであろうか。
「言語」の外側の世界は、「神秘」であるとヴィトゲンシュタインは言う。
神秘とは、論理や言語を曖昧に用いることから来るルーズさではなく、人は明晰であるがままに論理の極北において「神秘」と出会うのではないのか。
言語を「壁」として理解するとき、「言葉」の世界が始まる。
「言語」の「外側」とは、言語が「言語」であることを保証していた論理的形式が蒸発する消点のような領域である。そこでは、人は人であることすらできない、「世界」の裏側である。
「言葉」とは何か?それは第一に、「言語」の限界概念として理解される。
「言葉」とは、第二に、主客を超えた、固有の共同体的な「語り」として歌や詩の中に再現する。例えば凋落へと向かうアテネ民主制の失われゆく急斜面で、固有の民族経験としてプラトンの『饗宴』のシンポジウム的理性(飲み食い的理性?)な「語り」が存在したように!