アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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成瀬『山の音』対小津『東京暮色』――日本の父親像をめぐって アリアドネ・アーカイブスより

成瀬『山の音』対小津『東京暮色』――日本の父親像をめぐって
2013-09-21 11:08:31
テーマ:映画と演劇

 


・ 1954年と57年と、日本を代表する名匠とも云うべき小津、成瀬両監督の両作品は実に似ている。
 似ていると云うのは、ドラマの構成において――何れも物語筋としては単純な
、若夫婦の不和と和解までを描いている。『山の音』の場合は他家に嫁いだ嫁の立場で、『東京暮色』では実家に寄寓している子連れの出戻り娘として。若妻を演じているのがどちらも原節子である。前者の原節子は良家の子女のようにあくまで清楚で美しく、後者では所帯じみて結婚生活に疲れた風情である。
 また家庭環境の違いについて言及すると、どちらの家庭も一方では母親が不在であり、他方は存在感が薄く実質的に父親が若嫁と連携して家計全般を切り盛りしている如くである。両家の父親とも会社では重職にあり役員待遇であり、特に『山の音』の重役は余裕時間を生かして積極的に家庭内の問題解決に介入しているかのごとくである。特に、息子の浮気の相手をめぐって執拗な探索作業を企てるところなど、日本の現代社会においては異色の存在である。ややアイロニカルな表現を使えば、行動する舅とでもいうべきか。加えて原作があの川端康成なので、老人の性の問題が仄の白く明滅し、不気味である。
 舅は嫁に異常な優しさを見せる。それを傍目で見ている姑は諦め顔で且つ得心も行かず軽い嫉妬心すら憶える。嫉妬心は若妻の美しさに対してではなく、夫が本当は自分の美貌であった姉との結婚を望んでいたのに、偶然的な経緯から現在の自分と結果的に結ばれるに至ったと云う、夫は息子の嫁の中にかっての面影を二重映しにして偲んでいるのではないのかと、青春の頃の傷の疼きを未だに郷愁のように抱えていて、その思いは陰湿である。それで何かことある度毎に、老母はそのことをチクリチクリと云うのだが、人物が出来ていると云うのか山村総演じる夫はそれを軽く受け流しているかにみえる。

 凄いところは、同じ会社に勤めている息子の不行跡を秘書に問い糺し、彼女に促されるようにして連れられて、愛人宅を訪れる場面だろう。当の愛人が、秘書、友人と間を介してなかなかに登場しないので、怖ろしさに震えるほどである。そして偶然からたまたま早く帰宅した愛人に引き合わされるのだが、会ってみれば一部の隙もないほどの立派な戦災未亡人なのである。
 ここから分かることは、息子が愛人に求めたのは、戦争の影、戦争の傷痕を求めての同士愛のようなものだったのだろう。川端が何れをも悪人とは描かないので、彼らの立場が理解でき、理解できるけれども決してわたしたち平民と同じ世界を生きているとは思えない人たちであるだけに、やはり怖いのである。彼らを理解するのは怖いのである。その怖さに堪えながら、果敢にも山村総演じる舅が挑戦していく姿が健気にも、痛ましくも、気の毒にも感じられる。
 わたしたちはこの映画を見ていて、この行動する舅が、老人の性や色恋などではなく、純粋な気持ちで若い妻を気の毒に思い、何とか解決の糸口を見出したいとの切迫した気持ちだけが伝わって来て感動的である。
 
 『山の音』の父親は実際にはいそうもないタイプの日本の父親像であったが、小津の『東京暮色』の父親は、同じ会社で重職にあるとは言っても、家庭内では妻に逃げられ子供たちからの信頼を得ているとも思えず、何処か遠慮がちで自信なげである。自信の無さは一見寛容にも善良にも見えるのだが、実際には凡そ人の気持ちを理解するに苦手な、ナイーヴさを欠いた日本の父親像の典型なのである。こうしたs父親でも、不思議なことに、条件さへかなえば「頑固おやじ」として人に愛されもするのである。しかし条件が悪すぎた。

 嫁ぎ先で上手くいかず一時的に実家に帰宅している娘は物心ついた頃、家を出奔した母親の姿を記憶している。その理由も、社会規範に照らして許し難いものであることも十分に承知している。それで偶然から、お節介な小母さんの世間話から母親が実は近くの麻雀屋に住んでいるらしいと聞くところから悲劇は始まる。
 同じ出来事は、母親の出奔と云う事実を記憶に留めていない次女の場合は複雑である。彼女は一方で叶えることが出来ない大学生との恋に身をやつしている。結果は身ごもって大学生に捨てられて人工的に堕胎するに至る。最期は、自殺なのかどうなのか分からない不可解な踏切事故に巻き込まれて死ぬ。
 死に臨んで、誰をも恨む訳でもなく、只管に生きたかった、とだけ述べる。永遠の少年を思わせる有馬稲子の中性的な魅力は、開花しきれなかった性と人生の不全感を描いて哀切である。
 長女は、そんな彼女の思いを引き受けて、地獄だとは分かっていても逃れようのない現実を直視し、そこにしか生きていくすべはないのだと密かに決意する。
 こうした偉大なる女たちの物語に対して、非力な父親に何が言えただろう。

 
 同様に『山の音』の若い妻もまた、夫の子であるがゆえに密かに人工堕胎をし、炯眼な舅に見破られる。舅は責めると云うよりも、嫁の絶望の深さを思い知る。もはや行動を猶予すべき時ではない、彼は周囲に果敢に働きかける。
 『山の音』にはもう一つ、舅の長女が家庭内の不和で子連れで実家に居候していると云う事情もあり、あろうことか不行跡の息子に、長女の旦那を説得させる。悪には悪を持って制すとでも云うべきマキャべりスムの真骨頂である。この不良の中年の男どもは互いに酒が好きなので意気投合し、同類相好むと云うのか相哀れむと云う次第になる。こうした段取りの元に、若い妻にも何時しか回心の時が訪れる。あれだけの深い傷を負ったのだから、こんなに単純な幕引きで良いのだろうかと観客としてはお節介にも思うのだが、取りあえずは目出度いハッピーエンドと云うことで終わるのである。
 映画の最期の場面で舅と嫁は広大な新宿御苑の並木道を並んで歩く。視界を遮るものは何もない。そこで若い妻は初めて自分の決意を述べる。例え帰っていく現実が地獄であろうとも、選択することが叶わない唯一の現実であるがゆえに、果敢にも引き受けざるを得ないと云う思いなのである。しかし本当は舅の善意に報いたのである。舅もまた自分たちの立場を理解して、家を若夫婦に譲り、信州の郷里の家に帰るのだと云う。
 
 『山の音』では、ありそうもない日本の家庭と老いた父親像を描いた。『東京暮色』は代表例にはなりえないかもしれないけれども、現代の日本において、ももしかしたら日本の津々浦々にあるかもしれない、否、ありそうな家庭の事情と、自信を無くした優しいのか厳しいのか分からない曖昧な日本の父親像を描いている。小津安二郎が初めて、『東京物語』などのような様式美や虚構性を去って、日本のリアルな現実を描いたと云う意味でもっと評価されてよい作品であるのかもしれない。

 『山の音』対『東京暮色』は、成瀬対小津と云うよりも、川端対小津・野田の対決と云うべきか。成瀬の映画は川端の原作を原作以上の怖さを持って描いていると思う。特に舅が手に入れたいと思っている小面(こおもて)の能面を若妻に着けさせて、面を傾がせて、仰いだり翳ったりさせながら青春を回想する場面の怖さは秀逸である。川端の世界の怖さは、得体のしれないものと遭遇する怖さである。
 『東京暮色』の魅力は、以前は山田五十鈴の庶民を演じた存在感にあると思っていた。いまは、原節子の理念型の女性の教条主義もいいし、笠智衆の無責任なお父さんぶりも良い、そして何よりも地味だけれども有馬稲子の美しさに初めて気がついた。
#観劇