アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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武田百合子の『富士日記』・2 アリアドネ・アーカイブスより

武田百合子の『富士日記』・2
2014-06-03 12:46:28
テーマ:文学と思想




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 それでは『富士日記』の魅力とは何なんだろうか。より適切な言い方をすれば百合子氏のどこにわたしたちは人間としての共感を感じるのだろうか。

 実を言うと『富士日記』には、一般的な世評、通念を裏切るような、大きな山場となる二つの場面がある。そのひとつ、――

” ふと気づくと主人がいない。ひとことも言わずに、トンネルの中へ、すたすたと戻って行くのだ。しかもトンネルのはしっこではなく、まんまんなかを歩いて入って行くところだ。「あんなものはいらない。なくても走れるよ。歩いて入っちゃ危ない」。私が呼び返しても、大トラックが轟音をたてて連続して出入りしているので聞こえない。ふり向かないで、真暗いトンネルの中に、吸い込まれるように、夢遊病者のように、大トラックに挟まれて入って行ってしまう。何であんなに無防備なふわふわした歩き方で、平気で入って行ってしまうのだろう。死んでしまう。昨夜遅くまで客があり、私が疲れていて今朝眠がったからだ。ぐったりしている私の、頭を撫でたり体をさすったりして、しきりになだめすかして起してくれたのに、私が不機嫌を直さなかったからだ。車の中で話しかけてきても私は意地の悪い返事ばかり返した。私は足がふるえてきて、のどや食道のあたりが熱くふくらんでくる。予想したことが起る。トンネルの中で、キィーッと急ブレーキでトラックが停る音がし、入って行く上りの車の列は停って、中でつかえている様子。 バカヤローといっているらしい運転手の罵声が二度ほどワーンと聞こえてくる。私はしゃがんでしまう。そのうちに、主人は、またトンネルのまんまんなかを、のこのこと戻ってきた。両手と両足、ズボンの裾は、泥水で真黒になって私の前までくると「みつからないな」と言った。黄色いシャツを着ていたから、轢かれなかった。ズボンと靴を拭いているうちに、私はズボンにつかまって泣いた。泣いたら、朝ごはんを吐いてしまったので、また、そのげろも拭いた。”(中公文庫・上巻P333~334)

 つまり当時第一次戦後派を代表する高名な作家の一人でもあった武田泰淳氏の大人げない、ちょっと妻に冷たくされただけにしては邪気に満ちた愛情の表現なのである。つまり母親に甘える子供のように、泰淳氏は死んでやる!と云って駄々をこねている場面である。
 武田泰淳の愛読者なら高名な作家の知られざる側面を覗き見た感じがして興味深いのかもしれないが、児戯じみた突発的な行いが、ズボンの裾を握りしめて泣きくじゃる妻の姿を見るにおよんで、それが実存の根幹にもかかわる問題、げろを履くと云うような生理的な痙攣でしか現せない、生存の層がぎりぎりに置いて露呈するような問題であったこを思い知らされるのである。
 この場面は、泰淳氏の子供じみた邪気と、百合子の実存が露呈するような深刻さの対比があった、と云う風に読んでみてはいかがだろうか。武田泰淳には文学がある。富士日記が綴られていたころ代表作『冨士』は書き継がれていた。富士日記の世界は泰淳氏にとっては主要な不可欠な併存する世界のひとつだが、百合子にとっては全てであった。
 
 わたしたちはこの場面を読んでも少しも百合子氏のゲロを汚いとは感じない。生理的に綺麗であるとか汚いとかを超えているからである。本文中にはこれに類する下世話の話が随分出てくるけれども、百合子のユーモアの感覚もあるのだろうけれども、その根底には厳粛な事実がある。
 厳粛な事実とは、自ら夫に内緒で運転免許証を取り、同じく内緒で別荘を購入した彼女が、殆ど人間の限界に近い活動と行動性を持って、時にはおきゃんと自己主張の強い性格を発揮しながら守ろうとしたものの在りかの事なのである。
 彼女は書いている、――春夏秋冬の富士山麓の日々の中で、時折近くの草むらや雑木林を歩くことがあったが、夕暮れ近く夕闇の中にぼおっと燈った牡丹灯籠のように明かりのついた我が家が見えることがある。その時彼女はまるで信じがたいことのように、それが自分たちの家であること、我が家であることを確認するのである。不可能とは知りながら、それが命を挺して守ろうとしたものの在りかなのである。

 『富士日記』にはもう一つの基調音とは異なった異質な場面があると先に書いた、その二。それは言うまでもなく下巻最後の末尾の場面である――、

” 御二人が帰られても上機嫌は続き、花子と私相手に「かんビールをポンと・・・・・」を繰り返し、手つきをし、ねだる。ダメと言うと「それでは、つめたいおつゆを下さい」と言う。花子「ずるいわねえ。それもやっぱりかんビールのことよ」と笑う。それからまた「かんビールを下さい。別に怪しい者ではございません」と、おかしそうに笑い乍ら言う。私と花子が笑うと、するとまた一緒になって笑う。
 そのあと、薬(殆ど消化剤とビタミンC)をのんで、せいせいしたように眠りにいった。私と花子、起きて明朝を待つ。向かいの丘の新築マンションに、いつまで経っても灯りが煌々とついている部屋が二つあって、部屋の中央の中の椅子や道具まではっきり見えている。人が立ったり歩いたりするのも見える。眠くなりそうになると、その部屋を見つめて夜が明けるのを待った。夜中ずっと雨がふって、風もつよくなった。朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。”(中公文庫・下巻・P474 )

 この場面は入院を明日に控えた最後の夜を我が家で過ごす場面を描いたものであるが、わたしもまた思い出していた。六日五晩、病院のベッドの傍で看取りの場にいた。時折は便所に立つときや肢体の痺れを癒やすため廊下の突き当りまで歩いて戻って来ることがあった。廊下の突き当りには腰つきの小さなガラス窓があって、病院の駐車場越しに夜通し煌々と灯りを燈したコンビニエンスストアを見ることが出来た。そのコンビニエンスストアの広いガラス窓とタイルの壁面が朝日に照らされるのを見るたびごとに、また一日が一日、生き延びることができたと寂寥のなかで思ったものだった。