アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『舟を編む』――言葉の固有な意味を求めて アリアドネ・アーカイブスより

映画『舟を編む』――言葉の固有な意味を求めて
2014-06-14 11:12:59
テーマ:映画と演劇




国語辞書における言語の定義や使用例が、経験を経由することで新たな言葉の再定義に至る、つまり言語から言葉への過程、無味乾燥なともいえる辞書言語や月並みな言語表現が言の葉、すなわち「言葉」に帰還する、その過程を念頭に置きながら、この記事を読んでいただくと幸いです。言語から言葉への変換、言の葉との出会いはそこに於いてこそ人間でありうるような稀有な経験をもたらすのですから。
 この映画を見乍ら、日本人に何が欠けているのか、日本語に欠けているのは何か、そうした観点から反面的に読んでいただくと嬉しいです。
 一方、日本語が、書き言葉、話し言葉の何れをとっても素晴らしい言語のひとつであることも間違いないのです。なぜなら、自国語の言語の限界を自国語を使って自国語の内部で思念しうると云うのは素晴らしいことだからです。


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架空の中型辞典『大渡海』が出来るまでの13年間を描いたものである。本がベストセラーになったのも辞書作りと云う素材の新鮮さ、映画化の方は分かりやすい映画造りになっていると云うことだろう。特に主要な脇役陣の熱演に光るものが感じられる。

 言葉を紡ぎ編むと云う仕事、表題に大意は言葉の海を渡るということ、海を渡る舟を紡いで編むと云う意味に解するが、それ故にこそ言葉が当の実在に一致する場面を求めて映画は転回するのだが、代表的な場面が二つ、一つは主人公の馬締(まじめ、と読むらしい)が林香具矢に「愛」や「恋」に該当する事態に直面し、その経験を辞書作りに生かしていく場面。もう一つは先輩社員の西岡が辞書編集部から配転移動を命じられてやけ酒を飲んで、酔ったふりをして学生時代から付き合いのあった岸辺みどりに苦し紛れに求婚する場面、一つは青春の始まりを意味し、もう一つはその終わりを意味しているのだが、過ぎ行く人生の哀歓を描いて暗示的である。

 ところで登場人物の一人一人がそれなりに描き分けられて、背後に過ぎて行ったそれぞれの人生を感じさせて良い映画造りであると思うのだが、如何せん、主役の類型的な人物設定がいけなかった。俳優が悪いと云うよりも、制作者側に経験不足があって、言葉に対する情熱とか辞書造りに賭けた生き様とかを語ることは多くても、その説明は通り一遍で生きたものと感じられないのである。映画監督や脚本家の経験不足もあると思うけれども、「恋」や「愛」にしても、与えられた従来の言葉の意味そのままで、その臨場感、言葉が名指されることによって発生する偶発性、偶発性が齎す開かれた経験による驚きと云うものが表現されていないのである。

 一つの例としては、主人公の馬締君は、真面目で変わっていると思われている。人の心理を読むことが苦手で、静止し固定し定型化したた言葉の配列とか序列付け、意味の定義と分類と云う作業に適しているかの如く描かれている。そうした疑似自閉症じみた性格の彼が、如何にして辞書作りと云う作業の中に恋愛と云う新しい経験に重ねて自らを発見していくか、という物語になるべきであった。ところが、映画の進行はそんな彼の特異な性格を誰もが素直に認めてしまって、女性の前でもじもじし優柔不断を繰り返すのが日本人の好ましい恋愛的人生観であり、その処世術jも、仕事が出来ればよい、成功物語であれば許されると云う安易な人生観で締めくくられているかの如くである。

 映画の最後の場面では、辞書造りの総責任者であり監修者であった恩師の墓前に『大渡海』の完成を報告に行った帰り道で、故人が愛していた海を妻と二人見に行く場面がある。ここで改めて、妻に今後ともよろしくお願いいたしますとぎこちなく丁寧な儀礼じみた挨拶の仕方をするのだが、これが彼の誠実さ不器用さの証であることを映画は描きたかったのだということは理解できても、「やはりあなたは変わっているのね」と云う妻の、半ば愛情半ば許容と許しの呟きを見てもこの場面は自然さを欠くもので、この青年がこの映画の固有な時間を通じて成長したわけではないことが分かるのである。
 もし、言葉に先立つものがあったなら、それは未然の原‐経験あるいは臨床的経験と呼んでもいいのだが、定義することも意味を仮定することもできない未然態、いままで経験したこともされたこともないような事態の中で言葉が主語となって定義し再定義されていくのを感じるはずである。辞書を引くと云う月並みな表現がこんなにも深い意味を秘めていたかに驚くはずである。恋や愛は一方では本人の感情を卓越へと導くとともに、慣習化された、陳腐で類型化された月並みの言葉の発見を通して、同時に平凡であることも学ぶのである。
 さて、原作の方はどうなのだろうか。三浦しおんの小説の方はそうでもないような気がしているのだが。