アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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言葉とは何か? アリアドネ・アーカイブスより

言葉とは何か?

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 言葉とは何か、という問題は奥深い。
 昔から言語機能論とも言語手段論とでも呼べる考え方があって、言語成り言葉とは、心なるものの世界の奥に内在する考え方なりある種の観念を表現するための、手段、あるいは道具であると云う考え方である。
 も一つは、とりわけ言葉のなかに固有の観念が宿らなくても言葉はそれ自体で美しい、という考え方である。現実とは移ろい逝く影のようなもので、言葉にこそ真実そのものが宿ると云う考え方である。言語本質論、とでも云えそうな考え方である。高名な小林秀雄なども言っていることであるが、ダンスや舞踊は何かのためにであるとか何かを表現しているからではなくて、その都度事の達成された過程のなかに、過程的進行する現存在のなかに美がある、という考え方である。興味ある見解である。
 まあ、言葉は手段か目的かと云うことになるのではあるが、手段と目的の関係性は――目的‐手段系のパラダイムと読んでもよいが――基本的には、一方においては認識する主観があり、他方に観察される対象が外的現実として厳として存在する、という古い古典的な二元論的構図を前提として成立する考え方であると言ってよい。
 
 以上の段階では言葉が内面の脈絡を綴るモノローグと云う文体の様式のひとつであるのか、発話態としての「公開された」言語と云う様式であるのかと云う区分は厳密には考える必要がなかったが、言葉が内面の諸問題や自意識と云う特殊な問題から解き放たれて自在に獲得する言語論的地平の問題については意外と注目されてこなかった。
 一つには、言語論の背景にある近代個人主義的なものの考え方の背後に、祭壇のように祀られた個人主義的自我の問題が前提されているからである。われ思うゆえにわれあり!高らかに宣言された近代的自我の雄叫びは今なおわたくしたちのものの考え方、言葉についての観念的ないし観照的態度を基底的なところで決定づけていると言ってよい。
 つまり近代的自我が抱懐している内面的な真実はそれ自体で価値があり、それが発話態として現実に形を成すか否かは、どうでもよいと云う問題であるとまでは言わないにしても、二義的な問題であると云うかなり穿った考え方である。
 こうした考え方の基本にあるのはやはり近代主義哲学的世界観のパラダイムのなかでも、とりわけ認識を優先する考え方から帰結されたものであると考える。古来、わたくしたちの哲学的なものの考え方には、認識論だけではなく、存在論もあれば実在論もある。とりわけ、眼に見えない架空の神なり魂を実在するものとして前提した議論を展開する実在論が近‐現代社会で影響力を失ったのは当然とも云える。確かな根拠を持って言えるのは、わたしたちが依存し暮らしている外的現実と、それを認識する、「いま」「ここ」意識としての「我」である、という考え方は近‐現代社会の常識として抜きがたく存在する。この現実‐我の二元論から云えることは、確実に存在すると云えるのは現実と我の二者のみと云うことになる。これを当然の自明の事象としてわたくしたちは微塵も疑ってはこなかった。
 
 それでは神や魂や形而上学的なもろもろの存在は造り話に過ぎないのだろうか。大体において作り話であろう、とわたくしも思う。しかし同様に我と現実の二つしか存在しないと云う偏った近代の二元論も、同様につくり話であると考える。「科学」を標榜する近代自然科学的言説のつくり話である可能性が高い。自然科学の強みは、大体において、普段我々が経験する日常感覚や経験値、常識に合致すると云う点に強みがあるが、本来科学的であるとは無前提である、何ものをもドグマとして固定しないと云う精神の自由度のことであるから、自然科学の諸前提である、偏った二元論をもカントの謂う「批判の法廷」の例外とするわけにはいかないのである。
 ついでに言っておくがわたくしたちが通常何気なく使っている、「科学的」なものの考え方と云うもの「科学」、scienceにこの語義を与えた明治の人の漢学的素養は偉かったと思う。「科学」とは「科目的」「学問」と云う意味である。「科学」が目指すのは真実の部分性と云う見識が含意として翻訳者のなかには当初前提されていたことを知るべきであろう。
 
 話題を元に戻すと、――、
 この疑問を解くべき糸口は、意外なところ、言語を言説として実際的な世界の場に立たせて見せるとうい経験によって得られる。
 言説とは、種々の観念なり思惟を恣意性に従ってあれこれと見解の相違や解釈の違いを述べることではない。畢竟ものごとを考えるとは自意識の問題に過ぎないと喝破した筈の冷徹なレアリスト・小林秀雄には、確かなのは己の自意識のみであって、観念の世界がそれ自体で独立した世界を持つこと、言語の宇宙とでも云える存在があることについて固有の洞察はあっても、明晰判明な言語を用いて眼に見えるものとして明示的に考えることはできなかった。彼には妄想や空想も含めた観念的世界の恣意性と、言語論的宇宙の実在について区別して考えることができなかったのである。口に出してこそ言わないけれども、近代主義的な理想に基づいて人類が進歩すると云う観念が虚妄か空想であるように、天皇制下の大和魂も小林にとっては虚妄に過ぎなかった。
 
 言論とは、超主観的に、超客観的であることを越えて言語的世界の上空から舞い降りてくる。そうした言語的な経験は残念ながら、書き言葉やハムレッやヴェルテルト風のモノローグを主体とする近代文学的な経験のなかでは成立しなかった。
 それは言葉が独自の実在する「もの」として光り輝く、という意味ですらない。なぜなら言葉は単に内面を表現するための手段であるにすぎないのであるから。しかし言葉は人間存在の母体であり、母なる原郷であり、棲み処ではあるが、常に既に後追い的な性格を有していて現実に起きた事象を追認する、という宿命的な性格を帯びている。しかし言語の追認する行為は、単に後付けで符号や記号として人為的に付けられると云う意味ではなくて、言葉のなかで現実は現実事態が変容すると云う経験に見舞われるのである。ここに変容すると言っても、もとから「なにもの」かがあって、それに付加的に性質なり性向が加わる、あるいは化学的に別の物質を生成させると云う意味ではなくて、よりもっと根源的な、無から有が誕生するような驚くべき事態、現実そのものの起原は知らず、唯一無二の「世界」として成立するのである。
 
 言葉が人間の故郷であると云う意味はそういう意味である。言語が人間の故郷であると云う意味は、それよりももっと驚くべきことがらを言外に含意として語っている。つまり、言葉は人間よりも起原が古い存在なのである。
 その神より古い言葉が、いま蔑まれ貶められている。
 あの危険なハメルーンの笛吹!舌足らずの男が誘おうとしているのは、思い出せば聖書にも書かれている、群れを成して砂塵と共に断崖から海に跳躍する言葉に盲いた豚どもの群れ!
 
 
  日本国憲法とは人類の新しい言語のひとつ経験であると同時に、人類よりも古き神々の、世界よりもなお古き言葉であり、始原に先立つ言語の宇宙なのである。
 かかる言語論的なあり方の象徴が先駆としての昭和天皇であり、引き継がれ継続する象徴天皇制としての意義であり、今上天皇陛下御自身の赤心に映じる現身なのである。
 
 陛下は先日、退位の意思を非公式に述べられた。近々それについての自らの感想を述べられると云う。昭和天皇より引き継がれた職責を忠実に果たされた陛下自身にしてみれば初めて自らの来し方あり方について述べられることになるのかもしれない。そのときわたくしたちが観るのは、生身の陛下自身の像に重ねて不可視の象徴天皇が畏れ多くも御自らの、言葉の現存在と云うものについて語り語られる戦後史の稀有の瞬間に直面することになるだろう。その時、陛下のご姿勢にどう対応するか、各人がどう向き合うかによって、その人なりの人格の比重が情け容赦もなく顕わになる。なぜなら、その時その人の象徴天皇制に対する理解の程度によって、その人自身のひととしての軽重が問われていることが言葉の問題として逆に顕わになるからである。