アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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407教室を聴講して アリアドネ・アーカイブスより

407教室を聴講して
2014-06-20 23:36:29
テーマ:宗教と哲学

講義の速記録をまとめてみる。




聖書と受胎告知
 受胎告知、四福音書のなかでは、ルカ書にのみ記載がある。これは二方向から考えられる。
① ユダヤの伝統とは異なったヘレニズムの伝統に於いて。もちろんヘレニズムの先にあるギリシア文化圏では、処女崇拝と云う現象はよく見られる事象であった。
② マリア信仰と云う名のキリスト教における女性性の尊重の問題。しかし、これは処女崇拝を可能にしているものと云う意味で、女性原理の尊重は外見に過ぎない。キリスト教ユダヤ教ともに基本は男性原理である。表題は、ジェンダーの脈絡のなかで読むことも興味深い。

福音書の中に現れた受胎告知の概要
① 先に述べたようにヨハネ書に於いて述べられる、「最初にことばありき」の言説は御言葉(ロゴス)が人となる、という意味での「受肉」の思想への展開である。注意すべきは、ヨハネ書にはマリアへの言及がないことである。
② マタイ書に於いては、マリアとヨセフの物語、二人が接触する以前に受精した、あるいは精霊によって身重になると云う語りとしての説明がある。
 またこの物語は、旧約聖書イザヤ書における「みよ、処女が身ごもっている」と云う記述を踏まえた予言の成就と云う新約固有のコンテキストで語られる。
 また、ここに云う処女概念はアルマ(乙女)、ギリシア文化圏における処女(パルテノス)崇拝の影響を見ることが出来る。
③ ルカ書に於いては、受胎告知の場面は、天使ガブリエルの訪問を迎えて、マリアが「私まだは男を知りません」と云う処女の困惑として描かれる。ガブリエル「いと高き力があなたを覆う」
 いと高き力、とは何か?いと高き力とは聖霊であり、「覆う」と云う表現の中に様々に描かれた「洞窟のマリア」であるとか「馬小屋のマリア」などなど、場所としての教会へ発展する経緯を読み取ることも可能である。


キリスト教における男性性の根拠
 奇跡の誕生譚はギリシア文化圏には多い。英雄、偉人、プラトン、アレクサンダー、ピタゴラスなど。
 ヨーロッパの古代から中世における産科医学を見るとピポクラテスなど幾つかの類例を見出すが、最も有名なのはアリストテレスの学説である。
 アリストテレスの学説とは、子は父の精液で決定を見ると云う考え方である。母なるものはアリストテレス流の形相-質料の言説からすれば、単なる質料・材料と考えられる。

 キリスト教においては男性性の根拠を、聖霊による受精として理解する。聖霊とはルカ書においては「いと高き力」、ヨハネ書では「御言葉」(ロゴス)である。

エスの誕生について
 イエスの誕生については聖書では日本語でいう「生まれる」と「産む」を使い分けている。
 生まれる→父性に関わる記述→ゲンナオー→ギグノー→GENERATE生み出す。
 生まれる→マリアに関わる記述→ティクトー→コンヤピア→CONCEPTION心に抱くこと。

受胎告知の絵画の図解学
 基本的には三つの軸がある。
① 上下関係、縦方向神とマリアの関係と言い換えても良い。
② 横の関係 G(ガブリエル)とM(マリア)の関係と読み替えてよい。
③ 舞台、奥行きの関係
 さてマリアは、聖霊を身体的などの部位で受け止めたか?
 絵画では、マリアの身体、頭(耳)、胸(心臓)、腹、のいずれかの部位として表現されている。腹部の下方向と云う表現は流石にないようである。(実際に探して見ればないことはない。ただし、教会的環境世界の境界域と云う意味での)

受胎告知と遠近法の関係
 三次元の物事を二次元で表現する技術と解されるが、不可視のものを可視化の次元で再現する技術とも理解できる。

魂の誕生はどの段階か?
 一般的には、お腹の中で胎児の動きが認められた段階であると理解されている。つまり魂の誕生は受精時とはある種の時差として理解されている。
 イエスの場合は、受精と魂の誕生には発生的には差がない、とされる。なぜならイエスは人を超えた存在であるがゆえに!

絵画に描かれた聖霊と魂
 受胎告知を描いた絵画の中には、左上の神からマリアの身体部位に向かって恩寵の光が発せられているが、その朧げな光の線条にそって、精霊の象徴である鳩と、もう一つ赤ん坊の形をした人形を見出すことが出来る。
 人形はキリストだが、キリスト教の教義上はこの段階で肉的なものが含まれているはずはないから、魂の表現であると解することが出来る。
 さて、精霊と魂の同時表現は、かかる絵画をある面で理解しにくくしている。
 *聖霊とは、先述の岡田氏の説明を敷衍すれば、ロゴス、神の御言葉、受肉を促す力となると思う。魂とは、聖霊によって受肉が成立した段階での固有さ、のようなものとして理解できると思う。ーー記録者
 


(注記)
 聖書専門家からすれば、本講義には教義上の様々な問題点が指摘されるだろう。この講演はあくまで公開のものではなく、受講を学内の学生に限った内輪の講演会であると云う前提を理解しておく必要がある。例えばアリストテレスの形相と質料の関係に於いて、形相(デザイン)、質料(物質)と云う説明などの単純化も、学生の共通教養科目を狙いのレベルにおいたものと理解すべきであることを言い添えておく。また記録者の知識の不足による聴き間違いも混じっていることであろう。 
なお講義は、多少取り留めもないところもあったが、昔風に黒板に板書すると云う懐かしい形式であった。パワーポイントにまとめておくのは、短時間に要領よい説明を可能にするが、出来合いのものと云うか、講義の生の臨場感を著しく削いでしまうものである。両者、一長一短はあると思うが、生の講義の持つ魅力は捨てがたいものがある。事前にテキスト『処女懐胎――描かれた「奇跡」と「聖家族」』(中公新書)も事前に紹介されている事であるから、全体の概要は本を読むことで補いうると云う方向で理解したい。

 本講義の中でわたしを驚かせたのは、下記のロレンツオ・ロットの『受胎告知』(1535年頃)である。

http://www.salvastyle.net/images/collect/lotto_annunciazione01.jpg


 天上の神の迫力、天使ガブリエルの太い腕と脚の強調された表現。そして瞬間的に恐怖を察知したかのようなマリアと猫の瞬発的な描き方! 
 ガブリエルの床に描く影も奇妙で、確かに観る者によっては、悪魔にも見える。画像を右に90℃展開してみるとよりよくその感じがつかめると云う岡田氏のご説明であった。悪魔とは天使のもう一つの、見えざる不可視の属性であるのか。キリスト教が無意識のうちに内在している現れであるのか、それとも画家ロレンツオ・ロットのイロニーであるのか。彼は異端の嫌疑がかけられた画家の一人であったらしい。
 絵画を見るとは、そこに主意的に表現されたもののみでなく、背後の無意識が打ち消し難く現れるその現れを読み解く楽しみでもある。特に宗教的言説を問う場合は、外見が一見華やかで形式的であるがゆえに、一層興味深いものとなる。
 岡田氏の講義を聴きながらわたしが受けたのはそのような宗教絵画を見ることの楽しみであった。