アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西南学院大学の岡田温司氏を囲むシンポジウムを聴講して・Ⅱ――ベンヤミンの方へ向かう冒険の旅 アリアドネ・アーカイブスより

西南学院大学岡田温司氏を囲むシンポジウムを聴講して・Ⅱ――ベンヤミンの方へ向かう冒険の旅
2014-06-26 19:55:53
テーマ:宗教と哲学

 



 アガンベンの喜劇論、ベンヤミンの『運命と性格』に寄っている。
森田氏によれば、アガンベンを読むことの意義のひとつは、アガンベンを通すことで、晦渋を極めるベンヤミンの思想をイタリアの明晰さの中に置くことが出来る、ということであるらしい。

ベンヤミンの著作では、「運命」は罪概念――原罪なども含む――と、ひいては宗教と結びつく。他方「性格」概念は潔白等の概念を通じて、幸福等の概念と結びつく。罪概念は贖罪を通じて、幸福を求めることの不可能性として現れ、支配の内面的機構として作用する。演劇的世界では、運命は悲劇として、喜劇は性格に結びつく。
 性格と喜劇の関係については。シェリングの悲劇の分析に論拠を求める。それにしても何故悲劇なのか。
 運命が持つ必然性、共同体との軋轢、自由を求める表象など、演劇の歴史に於いては悲劇の主導性があった。
*顕著な形ではオペラ史にみるように悲劇と喜劇の関係は、オペラセリアとオペラブッファの対立のように、領域ごとに棲み分けられて来たが、その場合でもブッファ(喜劇)はセリア(悲劇)よりは一段下のものであると云う点はヨーロッパの社会では社会的通念としてあったらしい。

 性格概念は、自然史の中で考えることが大切。従来は、性格とは倫理概念の中で考えられてきた。カント哲学では、叡知的性格と経験的性格として考えられてきた。

 喜劇と結びついた性格概念は、何らかの形で現れる。性格の徴とは?身体的自然に限られる。端的さ、明晰さ、シンプルなものとして。
*これを本講義では一義性と云ういい方で森田氏はとらえている。一義性とは性格概念が現れてくる場が身体現象に限られる、誤解の余地のない可視化されたものとして現れると云う意味でもある。他方、悲劇と結びついた運命概念は、内面性、多様性と結びついて沈黙の言語と化す。後述するように森田氏はオイディップスの物語について言及しているが、オイディップスの最後は目を抉り取り盲目となる行為の果てに王は何処とも知れず姿を消す余韻を含んだ終わり方をしているが、これがすなわち、内面的多様性、沈黙の言語としての悲劇の象徴的な終わり方であると考えていたようだ。

 ギリシア喜劇に於いては身体現象などに現れる徴をとおして無罪の概念に開ける。運命は宗教概念と結びつき死を想定する構成となっている。

*喜劇は先に述べたように表現の場が身体性の場、自然に関わるので明瞭であり、それは最終的には人間が無原罪であると云う世界に導く。それが喜劇の自由さ、とらわれの無さと云う意味である。他方運命概念は悲劇として、死を前提とし、それに抗う術を如何なる意味でも与えられていない。しかも悲劇はキリスト教の概念と結びつくことでさらに贖罪や自己犠牲の概念に到達する。いかなる意味でも人間は生まれながらにして有罪であり、その生涯は懺悔と悔い改めの活動に消費されるかの如くである。しかし奇妙なことに悲劇の世界に於いては潔白と云うものの考え方がなく、幸せと云う概念もない。特徴的なことにはギリシア悲劇に於いて幸福であることは単なる非定常的なあり方、悪く言えば、驕りや気ままな安逸さの状態と同一視され、処罰の対象として考えられてきたかの如き観がある。以上のようにベンヤミンの考え方の中には悲劇と喜劇の歴史的総括と再定義を踏まえてキリスト教の批判と云うよりも、言葉が言説として支配のイデオロギーとして作用してきた経緯を抉り出し、そこから人間としての自由を求める自然性の復権を通して自在さを与える希望の原理を読み取ろうとした営為として評価できる。

 ゲーテの『親和力』では自然の罪と――原罪――生のかかわりが描かれる。人間的性格は、ベンヤミンの『運命と性格』によれば無罪の概念と結びつく。
*他方運命は死や、不幸、贖罪行為を通じての死に結びつく。人間の生きるべき環境的世界が最終的には死と不幸と云う儀式を脱し得ないと云う様式は果たして倫理的たりうるであろうか。むしろ性格概念から倫理的な規定や宗教的な様式を切り離して、正儀と公平性と自然的生にとって現在はあり得ないと云う事を証明すべきではないのか。性格概念は根本的に生死を統一するものとして確立しなければならないのではないだろうか。

 精神、人格等の概念は従来カント哲学にも見るようにここでは叡知的性格として捉えられてきた。ロゴスとしての行為は倫理的評価と切り離せない。
*例えば献身的な姿勢などと云ういい方で強調される場合、行為が倫理と重ね合わされて語られていないだろうか。「嫉妬深い性格」「自己犠牲的な性格」となれば、これを退けることはできない。(後述するゲーテの『親和力』の場合は、「自己犠牲的」な生き方が一つの争点となる運命悲劇である。)
                     
 クラーゲスとの関係。性格学。キャラクター。
 
 性格論における、一義性を保証するもの、決断、言語的表現なしには成立しない。*一義性とは、身体的な身振り等によって目に見えるものとして名指されたものとして、一応理解しておく。
 『親和力』のオッティーリエは性格を持たない、単なる自然性を現すだけの存在である。*なぜなら、自死に至る自己犠牲的行為をめぐる逡巡には言語が伴わず、非言語的な沈黙、運命的な悲劇的色調が濃厚であるからである。従来の『親和力』論に於いて、オッティリエの死を、自己犠牲の死として、アガペー的愛の死として運命悲劇として評価しようとする解釈が大勢を占めていたが、ベンヤミンの『親和力論』などでは、かかる歪を宗教的犠牲が齎す支配の機構として見る観点を提起したかのように見える。

 人間と行為の関係に於いては、伝達可能性としての言語によって裏打ちされることが必要ではなかろうか。どういうことか――

 人間を行為へと導くもの、エートスとしての性格、決断、習慣化したもの、様々のものが考えられる。
 言語と決断とのに於いては、性格の経験と言語の経験は等しい。
 *ベンヤミンの『親和力論』の中に、悲劇性の認識は言語を伴わないと云う謎のような言葉がある。ベンヤミンは凡そ語られない沈黙した人間について語り、倫理的な言語喪失、倫理的な幼児性の中でゲーニウス(精霊)が誕生するとも述べ、これを悲劇の持つ高さであるとして彼の悲劇論の一端を見せている。
 *ここに云う倫理的人間の言語喪失が『親和力』の最後のカタストロフィーを語っているのではないのか。ヒロインのオッティーリエの絶食を通じての自然史と云う壮絶な結末は、贖罪的行為の聖化としての悲劇であることは間違いがないのだが、それは言葉を補いうことが出来れば喜劇として転生するのではないのか、ベンヤミンはそう書いていないけれども、ゲーテの『親和力』はそのよううに読める。
 *人間の行為が、宿命とか運命とかから開放され、それが悲劇として完結せざるを得ないとしても、もしその行為に裏側から言語によって裏打ちされたものとなることが出来るならば、人生の経験と伝達可能としての言語の経験は通訳可能なものとなる。ベンヤミンの悲劇論と喜劇論御交錯する場面は、後述するようにそのように読むことも可能である。
*悲劇とは、アリストテレスの悲劇論にも見るようにある種の内面性としての高さを、崇高さや偉大さの概念を。喜劇とは、公共化された言語をとおして自由の概念生む。悲劇と喜劇は対立してあるのではなく、悲劇ですらも、それが固有の言語喪失と云う事態を言語で補うことがもし可能なら、喜劇へと変容する。
 あらゆる偉大な演劇は喜劇的である。

 性格としての喜劇、モリエールの喜劇などを見ると、そこから生み出されるのは喜劇の単一性と一義性である。一義的であることとは自由であることと無関係ではない。舞台芸術における特殊性、かかるギリシアの演劇的性格こそ道徳の根拠となりえるのではないのか。
 笑いとは明瞭であること、行動が単純で多義的な解釈を許さず一義的であること、そこにもしかしたら仮面劇としてのギリシア喜劇の秘密があるのかもしれない。
 ベンヤミンのゲーニウス、産出する精神、それは仮面の経験なのである。

 聖書を読んでみると奇妙なことにアダムやオイディップスには罪の自覚の欠如が認められる。あるいは無罪であり有罪でもあると云う不思議な感覚であると言い換えても良い。
 オイディップスの悲劇とは、自ら自覚することなく不運な結果を後追い的に経験し運命の自覚に至る男の物語である。これは果たして罪の自覚の物語と云えるのであろうか。
 *とは言っても、オイディップスは一連の連鎖する運命の物語を結果としては受け入れなければならない。オイディップスの物語の大団円は自らの眼を抉り取ると云う行為だが、これは従来懺悔や贖罪の行為のように一方的に読まれてきた。しかし運命や命運と云うものが目に見える可視的で明晰な明示的行為としては不可能であると云うならば、かかる機能不全としての視覚を機能停止の様態に置き、つまり目をえぐると云う行為によって不可視のものを可視的なものとすること、それこそ悲劇における言語喪失と云う事態を、伝達可能の喜劇として転換することが出来るのではないのか。
 とは言え、喜劇とは実人生の中では究極の幻影のようなものである。だからより以上の真実さを求めると云う意味で人間は実人生の他に演劇的世界を誕生させたのかもしれない。芸術とはもしかしたらそれは死後の世界のようなものかもしれない。ギリシア的世界の理想郷、アルカディアとは喜劇的世界の記憶、ベンヤミンの「かってない」「いまだない」の無限の連鎖なのかもしれない。

 なぜ喜劇は可笑しいのか。モリエールの喜劇では登場人物の性格は『守銭奴』であったり『気を病む男』出会ったりするのだが、実人生ではこうした人間がいたら鬱陶しく感じられるものが、演劇的世界において見ると、それは観る者に笑いを呼び起こす。笑いを通じて、人間は自由であるとの感覚を植え付けられるのである。

まとめ
① ベンヤミンのメシアにズムとは?
 歴史の終わりとしての正儀論――歴史主義の批判――進歩の概念、永劫回帰の否定。
② 近代の喜劇的なものをメシアにズムから解釈。
 フランツ・カフカにおける、罪あるものから罪なき者へ!
③ 喜劇的実存の可能性
 身振りの経験――性格の徴――可視的なものを通じて、(目的なき)純粋な手段としての領域を開く――実存を通じて倫理の問題へ!


(追記)
 森田氏の講演はベンヤミンアガンベンを語りながら、ベンヤミン以上に晦渋で交錯した複雑な内容はわたしを混乱させた。ベンヤミンの思想の難解さはその思想もさることながら独特の用語の使い方にあると思うのだが、彼の思想になじみがないと中々に理解を困難にさせる。しかし思想の困難さの中から吹き上げてくる熱気のようなものはやはり彼の魅力として感じられて、それで大部のものは別として理解のために短いものを数例読んでみた。もし、今の段階で森田氏の感動的な講演を聴いていたならば理解力、メモの取り方等一変していたと思われるのだが、そうした事情であるので、わたしが記録した速記議事録をそのまま書いたのは意味をなさないので、*印しとしてわたしの見解を付け加えた。わたしの側に知識の量と質があればもう少しは正確な議事録を造れたとは思うのだが、後の祭りである。森田氏にはここにお詫びいたします。
 それでも森田氏のお話を聴きながら、人間とは罪概念からは自由であること、笑いとは自由の形式である事をベンヤミンの思想の最終形のものとして理解した。それは希望や願望が最も閉ざされたとき思いがけない発想で逆転の思想は降臨するのである。それはユダヤ的な発想を求めた余りにもユダヤ人らしい発想の仕方であったともいえる。それにしても一度尋ねてみたいと思いながら森田氏に言い出せないことを一つだけ書き付けておく、それは――

 周知のようにアリストテレスの『詩学』は、喜劇論の部分を欠いているが、これまた周知のエーコの『薔薇の名前』に於いてこそ、アリストテレス詩学に於いて喜劇論が紛失した経緯を想像力によって補った、ミステリアスでもあれば血なまぐさくもある中世の修道院に舞台を取ったエーコの物語なのであった。
 エーコの『薔薇の名前』がベンヤミンアガンベンとの、今回の講演の思想圏にあることは明らかだろう。それが西欧諸国に比して長い歴史のスパンを持つイタリア現代思想の強みとも魅力ともいえるであろう。森田氏に感謝したい、そしてベンヤミンエーコの関係についてもお尋ねしてみることは次の課題である。
この講義録は森田氏の講演の内容の記録であるよりも、わたしがベンヤミンの思想と格闘した記念に近いものになっている。




 ここで15分ほどの休憩に入る。ふと、窓ガラスを通してみると沛然たる雨が校舎をけぶらせていた。幾筋もの雨粒が繊細な線条を幾重にも引いているのであった。ベンヤミンの生涯は、あれほど絶望することを禁止命題とした彼を打ち負かすほどの勢いで、フランスとスペインの境にあるピレネーの山中に肉体も魂もまるごと押し流してしまうほどのものであった。しかし彼の不運な著作はアドルノやフランスの現代思想家達の幾人かによって後代に希望の在りかを指し示す星座のように伝えられたのである。