アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西南学院大の岡田温司氏を囲むシンポジウムを傍聴して・Ⅰ――ジョルジョ・アガンベンについて アリアドネ・アーカイブスより

西南学院大岡田温司氏を囲むシンポジウムを傍聴して・Ⅰ――ジョルジョ・アガンベンについて
2014-06-26 15:00:38
テーマ:宗教と哲学

 



 雨になりそうな気配を感じながらも、前日、特別にお願いした西山先生ほかのご厚意で、表記のシンポジウムを傍聴することが出来たので、行きなれた学内のコミュニティセンターへ向かった。前もって非公式のものと聞いてはいたのだが学内にもホール前の掲示板にも案内表示がない。場所は一階のホールの奥まった階段を上った二階の会議室である。発表者は岡田京都大学教授のほかに、西南学院大学から二名、森田團国際文化部准教授、西山達也准教授のお二人である。聴講する側は大半が大学院生と大学職員方二三名の、総計15名ほどの陣容である。
 シンポジウムの概要は、岡田氏の著作にも紹介がある、現代イタリアの気鋭の思想家ジョルジョ・アガンベンの問題提起の一端の紹介と、森田、西山両氏が専門とするドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンハイデガーの論拠的立場からアガンベンを経由しつつ現代史の視座へと問題の視角を敷衍する、と云う試みであるらしい。加えて大学院生の教育の場として生かすと云うことだと思う。会議は予定の午後四時を遥かに超えて五時15分まで活発な質疑応答が行き交った。


速記録

 さて、アガンベンであるが、その特色を岡田氏は以下のように要約される。(*は筆者記入)
① 潜在力――*アリストテレスの有名な概念、デュなミス(潜在態)とエネルゲイア(現実態)のこと。
② 閾――*境界域、と云う意味ではないかと思う。
③ 身振り
④ 無為
⑤ 讀聖
⑥ 共同体
⑦ メシア
⑧ 声
⑨ 注解・注釈
⑩ 貧しさ

① デュなミス(潜在力)とエネルゲイア(現勢力)について。
 現勢力とは、可能性の保留、人間のみに可能なことがらである。
 ハイデガーでは、欠如態としての「否」、としてとらえる。
 これは、パッション、受苦、受動性、受動力の卓越へと道を開く――主体の自由や権利概念とは無関係のものとして理解すること。*近代の主体概念に含まれる積極的な意味からは一旦切り離して理解したいということだろう。
 *アリストテレスのデュナミスエネルゲイアに於いては、萌芽としてのデュナミスはエネルゲイアの圏域に包含される、準主動的な動機に過ぎなくて、エネルゲイアの前段階、のように理解させているのにたいして、それを逆転させたいということなのだろう。

② 閾とは、境界域、カント的な限界概念。AとnonAの間が存在する。・・・間にあるものに注目すること!

③ 身振りとは、身を置く場、近代人は身振りよりも重視しているのは内面性である。身振りに注目することで人間に倫理的な次元を開けないだろうか。*近代人の内面重視の考え方が倫理を導けないということもあるだろう。近代主義の主観と客観、認識と行動、内面と外面の二元論的な定立化のなかで倫理の問題が希薄になる。例えば認識優位の科学思想の中での科学者の倫理の問題であるとか。

④ 讀聖とは、世俗化――シュミットやウェーバーレーヴィットの意味での、ただしこの場合は事実確認的な意味合いが強い。例えば目的なき手段性(遊び)に見られるような、パフォーマティブな能力の開発こそ必要!

⑤ 無為とは、例えばブランショが云うような意味での、目的に縛られない手段性とか。
 アリストテレスのニコマコス倫理学で、特定の使命を持たない生物、固有の仕事がない状態に言及している。自己の活動力を完走しないことによる無為?
 ベンヤミンの神的暴力の概念規定では、不活性こそ法の完成態であるとみなす。権力や栄光を求めない、無為さに注目!

⑥ 共同性とは、バタイユブランショの用例にみるように、個人主義の延長としての共同性ではない。
 仲間意識に依存しない共同性を志向する。
 出発点は何処にあるか?――qodlibetと云う概念があるが、これは誰であれ望まれるものであると云う意味で、ホップスの「万人の万人に対する闘争」と云う自由主義の概念とは反対のものである。
 マイノリティ対マジョリティと云う発想の底にある、権利の要求と云う問題設定こそ問題であると考える。
 ラ・ポリティカ、ル・ポリティカ、政治の内部のみの思考はニヒリズムを導き出す。

⑦ メシア論とは、ベンヤミンの「いまとここ」の終末論を参照したい。
 パウロの著書に「カタルゲイン」、「カタルゲオー」という用語があるが、これはアルゴス――不活性のと云う意味と本来関係があったものが、(*ギリシア語に翻訳される過程で?)、止揚(アウフェーヴェン)と云う意味に変換されてしまった。
 これは「ホースメー」――~でないものに、と云う意味であって、カントの有名な定言命法とは反対のものである。同一性に囚われないと云う意味である。
 メシア的なものの考え方が、無為のものとすると云う考え方がドイツ語化の過程で――*ルターの時代の事か?――アウフェーヴェンとなってドイツ哲学に定着した。

⑧ 声とは、近代が意味や情報に重きを起きがちな傾向への反措定。
 言語活動が生起していると云う問題に注目したい。
 ギリシア・フォネー(音声・記号)とロゴス(言葉)、ゾーエー(個体の有限の生命)とビオス(個々の生命体を超えた社会的生命)、ここから意味になる手前の世界に注目すべし!
 出来上がったエクリチュールに対して、音以上あるいは音以下のもの、つまりアガンベンに於いては、アウシュヴィッツにおける声の証言の問題に関係している。*つまりアウシュヴィッツは単なるエクリチュールの問題では解けないということだろうか?

⑨ 注釈とは、思考のスタイル、過去のテキストを自由注釈する立場。
 パウロに異言と云う言葉がある。――「異言について語ることは神に向かって語ること」であると云う。

⑩ 貧しさとは、フランチェスコの所有と権利、止揚と義務のあり方などがアガンベンに影響を与えている。

*注記: 速記録は、記録者の分野における知識量と理解度によって大きく制限される。誤解や誤記もあると思うが、事情に鑑みてご容赦願いたい。