アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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旧約の神について思うこと アリアドネ・アーカイブスより

旧約の神について思うこと
2014-08-27 18:48:42
テーマ:宗教と哲学



 聖書を本格的に研究されている方からみれば幼稚な疑問と思われるかもしれませんが、旧約の神はなにゆえ怒りと殺戮と妬みの神として描かれたのかと云う、異教徒ならば当然持つ疑問ですね。この疑問に答えてくださる方は少なく、ようやくユダヤ教徒の方からピントをいただくことができました。
 ついでに言うと、もう一つ素朴な疑問があって、それは、何故この世には悪が存在するかと云う良く知られた設問です。

 その方がおっしゃるには、ユダヤ教が同じく一神教と云われる由縁は神の絶対性や卓越にあるのではなく、地上性や世俗性の絶対化、物神崇拝の危険性に対する第一次的防御の機構としてあるのだと云う説明でした。 
 なるほど、モーゼの十戒においてはモーゼの果敢とも過激ともいえる言動が描かれています。未完ですがシェーンベルクの歌劇『モーゼとアロン』においては、物神崇拝を巡る二人の対話は、あるいは死を賭けた二人の論争は、神の国に至る過程や段階論として、受肉の思想をどのような形で段階的に認めるのかと云う論戦であるように思えましたが、モーゼは原則論者として、かかる過程や段階を一切認めない教条主義として描かれていたようです。
 つまりこの論戦の結果敗れたアロンは天を仰ぐようにしてオペラの末尾では死にました。アロンが死んだということは、世代交代が行われたと云う事、旧約世界の背後には血なまぐさい粛清が行われたことが暗示されております。

 つまり聖書の中で描かれた思想の中でモーゼの教条主義を主として引き継いだのがユダヤ教であると、乱暴ではありますが要約できるわけです。
 しかしこの問題が与えた影響は甚大で、物神化現象の中に世俗的価値や地上的な物事を相対化してみると云う一般論(物象化論)としては理解できるものの、物象化一般の中に特殊な出来事として、キリスト教における受肉の思想、とりわけ三位一体の思想をも含めるとなると厄介なことになります。要は受肉の思想とは愛の思想ですから、キリスト教が己の卓越を自覚化する過程で生み出した愛なりアガペーの思想が、この圏域の議論に抵触してくるわけです。

 ここからユダヤ教徒の方が言われる教義を特徴づける物神崇拝の否定と云うことから導き出されます、わたしの初歩的な疑問に対する回答はたぶん以下のようになるでしょう。
 ユダヤ教に於いて、神が怒りの神、妬みの神、殺戮の神として描かれたのは、神と云えども完全ではなく(即自態としては)、自らの似姿に似せて造ったと云われる人間と云う鏡を通して、似姿と云う人間の鏡に写る姿を通して顕現する神の本質、ということではなかったか、と考えられると云うのです。つまり神は被造物の創造を通じて自らの本質を実現し、自らの本質に帰還する、と云うわけです。天地創造の物語は、なにゆえ神の側に於いても必要であり必然性があったかと云う理由になりえています。この点の理解はもう一つのキリスト教に関わる難問、――神が全き善なる存在であるとすれば何ゆえこの世に悪は存在するのかと云う素朴にして真摯ないま一つの設問に対して、様々に言い逃れてきたキリスト教の護教論者たちに代わって応え得るものなです。

 もちろん、ユダヤ教にとっても神は絶対でありその卓越を疑うことはできません。しかし旧約の聖書が言外に語ろうとしているのは、人間の側の反論可能性、それが人間の自由意志の根拠の一つになっているということなのです。反論可能性とは、神と人とが平等性に於いて議論できると云う意味ではなく、神ですらも対象化して考えうると云うこと、ここに於いても単なる拝謁の超越的対象としては考えないと云うユダヤ教の原則が貫かれているようです。

 さて、宗教と信仰の世界における反論可能性、もしこれが本当であるとするなら、ユダヤ教とは極めて特異でしかも卓越した思想のあり方であると云えます。神の絶対性、唯一性と人間の自由意志の起源を矛盾なく説いているからです。

 他方、キリスト教ユダヤ教の中から愛の思想を生み出す過程で、様々な物神崇拝や物象化一般の問題と闘わざるを得ない苛烈で残酷な宗教史、宗派闘争史を刻むことになりました。カソリックの思想が世俗や権力機構と結びつく原因の一端は、物象化論一般とかかわりを持たざるをえないあり方と、これを受肉の思想や愛を中心とした三位一体論が、常にかく非ざるものと云う無限否定形の形で、苛烈な宗派論争の形での純化の思想として闘いぬかれ、歴史的にはかくものとして現象せざるを得ないという事情をもたらしたのだと思います。
 キリスト教における純化の思想は、やがてはもう一つのある意味における旧約型の純化の思想の一帰結としてのプロテスタンティズムを、何時かは生まざるを得ない事情にあったと思います。

 キリスト教にとっての大きな曲がり角は、イエスの受難の物語にありました。十字架上のキリストのモメントは、言うまでもなく遥か旧約の彼方のイサクの燔祭の出来事を懐古的に引用し反芻しています。アブラハムの時代では神がクライマックスに出現してその悲劇的挙動を止めましたが、イエスの場合は、新約の記述をテキストとして読む限りにおいては奇跡は起きなかったように読み取れます。
 
 この事態は十二使徒をはじめとする彼に従った当時の信徒たちに衝撃を与えたものと思います。彼らはこれを見えざる教会としてとらえ神秘主義的な傾向へと逃れる道を開き、あるいは自分たちのものを見る目が堕落しているから奇跡が見えなかったのだと、反省的に考える内省的な道を開きました(原罪論)。いずれにせよ、ユダヤ思想の中にあった教義的な純粋化と云う傾向が、目に見えぬ不可視の絶対性なり超越と云う形を取る過程で、人間の自由の問題は制限されていくのです。
 言い換えれば、キリスト教が愛の宗教として成就する過程で、反論できない絶対の権威として崇拝を強制する宗教として完成するのです。愛ゆえにと語られたとき、実存としての人間ははなはだ苦しい立場に追いやられている自分自身を見出すのです。

 キリスト教は、ユダヤ教天地創造の最後の被造物(人間)の中に自らの本質を成就するという物語に変えて、一方通行型の神の愛と恩寵と云う思想に形を変えました。神は卓越した超越でありながら、他方では人間に関わると云う方法的な課題の中で、原罪や受難の思想、愛と三位一体の思想などの教説が鋭意造られたのです。

 何度聴いても合点のいかない三位一体の思想、――三位一体とは神が父なる神、子なるキリスト、そして聖霊として三つの位格に於いてある、とされていますけれども、神の方から見れば自明のことが人間の側から見れば、人間の不完全性ゆえに三つの重なり合った残像として映じる、ということなのでしょうか。
 父なる神の側からの人間たちへの働きかけは恩寵として現れれますが、それは媒介者イエス・キリスト受肉の思想をとおして現実のものとなります。受肉の思想がパッションとして演じられる場、それが聖霊の世界と云う意味でしょうか。また聖霊とは、即自態としては内部に差異を内包する神が、自らを本質として成就すると云う意味では、先に述べた、人間と云う名の鏡であるようにも思われます。キリスト教の三位一体の思想の中には遥かなる木霊のようにあるいは痕跡のように旧約の世界が反映しているかのようです。

 思想としてはよく分からないけれども、三位一体と受肉の思想が、ある意味ではユダヤ教モーセが禁忌した物神化と物象化一般の世界と隣接し抵触する過程で、絶えざる苛烈な定義と再定義の論争的な過程にあった、ということでしょうか。
 キリスト教ユダヤ教における言語の卓越に関する言説と論理主義は、西洋文明と云うものを生んだけれども、反面では自然に反する、あるいは自然を対象的自然としてとらえ、そこから人間をも技術的に捉える固有の文化と文明観が、人類を苛酷で苛烈な歴史的過程に有無を言わさず引きずり込んだとも言えるようです。これを文明化と云い近代化と読んでいるようです。

 わたしたち日本人がキリスト教と何の関わりがあるかと問うことも可能でしょう。しかし個人の思惟を超えた歴史は何時しか宇宙船地球号に乗せられた乗務員の一人として有無を言わせることなく、見えざる未来へと運ばれていくらしいのも自明なことに属します。しかも、宇宙船地球号を制御しているのは狂人であるかもしれないと云う反証可能性すら否定できないのです。9・11から3・11に至る事態は、正気の精神から狂気の行動が出てくると云う20世紀のパラドックスを彷彿とさせるものがあるのです。狂気には二種類あって、一つは脳器質的なもの、いま一つは健全な精神が明晰判明であるまま、完全無比であるがゆえに鮮明に区切られ切断された境界面に、狂気と云う名の膿を分娩しつつあると云う、西洋文明に固有の精神病理学的な現実なのです。