アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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忖度論の補足とつづき アリアドネ・アーカイブスより

忖度論の補足とつづき
2018-04-07 08:27:54
テーマ:政治と経済

――「忖度、は悪いか」の(補足)部分を再録します。
公共性とは何かを問うことは、
個人概念と私人の違いを理解することと等価である、
と云うことが主旨として書かれています。
一国の総理や政治家としての言動や言葉の理解力の浅さが
国の行く末を考える場合に如何に危険か、
知的水準の劣化が、場合に於いては
如何に犯罪的な行為になりうるか
を理解していただきたいと思い、書きました。
私の立場は何度も言うことですが、
政治を言葉の問題として考えることです。
政治家の事行ではなく、
言説の審議(真偽)を通して
政治を考えることになります。

(補足)
 橋下氏のように、忖度が論理的に理解できない、と云うことの裏には(忖度は非論理であるが非論理を論理的に理解することは可能)、個人と私人との概念的区別ができていないことが背景にあるのではないかと考えています。
 昨今の、昭恵夫人問題をはじめとして、公人私人の問題がクローズアップされてきていますが、そもそもにおいて、「公人Vs私人」などと云う考え方自体が語義の定義や概念的に正確ではなく、「公人」に対するものは「個人」になります。もし「私人」が出てくる場面があるとすれば、私的利害の延長や調整機関である国家概念や村落共同体に対するものであるはずです。一般に理解されているような国家や共同体には個を超えた公共性と云う概念は必ずしも必要とされません。とりわけ国家の概念が個々の人格に対して「超越的」に現れるとすれば、それは古代の神権国家が持っていたような、彼岸性や神秘性、現象界を越えた超越的な形而上学的な性格の方と関係がある、と考えた方がよいのです。
 個を超えた公共性と超越性を混同してはなりません。公共性もまた個々の人格を超えると云う意味で、「超越的」に個々の眼に映じることはあるのかもしれませんが、両者の違いは個人と云う概念が成立しているか否かが決め手となります。従ってあべせでクンや橋下君のような個人と云う概念が未発達の人格に於いては、公共性の概念が成立しにくいのは「論理的には」理解しやすいのです。個人の概念とは西欧型市民社会の成立に伴って個の自覚が掛け替えのない他者とは区別された実存としての個の成立を待って出現するものであって、私人が構成要素として組織する国家や共同体とは異なります。私人が構成するものは共同化社会、近現代では大衆化社会、その洗練化された一形態としては官僚制社会など、と云うことになります。私人と云う概念は現代史に固有のものではなく、超歴史的に如何なる時代に於いても類似の相当物を見出すと云う一般概念に過ぎません。

 以上を整理をすれば、「公人Vs個人」、「利害共同体Vs私人」と云うことになります。前者は政治学的な概念群、後者は文化文明論や社会学的な概念群と言い換えることも可能です。
 かかる語義の定義や歴史的由来の検証を欠いて、「公人Vs私人」などと云う問題設定をなんの臆面もなく白昼堂々と議論する在り方自体が与野党を問わず、論議に加わったものたち全体の知的レベルを現代史的に象徴するものだった、とは言えるでしょう。尤も、こういう論議態は、あべせでクンや橋下クンのおつむのキャパシティでは少々それを超える問題領域であるのかもしれませんが。