アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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漱石の『それから』を読み直す アリアドネ・アーカイブスより

漱石の『それから』を読み直す
2018-04-08 12:20:51
テーマ:文学と思想


 『それから』を読み直してみる。いわゆる名作と呼ばれるものは年齢に応じて読後感は異なると云う、新たな発見があると云う、異なった文脈の中に見知らぬ作家の風貌を、歴史と時代の新鮮な局面を見出す、本当のことだろうか。そもそも作家の死よりも二十年も長生きをし、相当の時間と経験を経て、再度文芸を読み込むとは、どういう意味なのだろうか。それは夏目漱石の秘められた詩と真実なのか、それともわたくしのそれなのか。
 長年、高等遊民の諦念(ニルアドミラリ)とばかり思い込んでいた。優柔不断な男が、かって友情ゆえに譲ってた細君の不幸を見るにつけて、同情が愛情へと微妙に変化していく。愛の自覚は次第に宗教性の意味さへ覚えて、殉教を自覚するに堪える物語と化すかに見える。専一純一な愛は、愛の孤立した至高的純粋さゆえに共感を及ぼすことはなく、一途さのゆえに処方を誤り、反って周囲の制約と反感をかうだけでなく、世俗性と無機性を増しつつある近代日本の精神的な歪の構造のなかで如何なる同情をも期待できない固有の罪概念と孤独へと専一的なもの達を追いやる、何ということだろううか。一口で言えば、怖ろしい小説である。
 愛を殉教の脈絡で語ると云う文芸作品は多い。古くは近松に於いても、シェイクスピアに於いても、ゲーテのヴェルテルに於いても、しかし愛の論理は別としても、それがこれほどの環境的悪意に晒されるとなると、いったいそれはどういう時代なのかと問いたくなる。そしてそれに対する答えは他でもない、百年ほど前の日本なのである。しかも愛をめぐる愛に対する悪意的環境はさほど変わっていない、と云うことに深いため息と感慨を禁じ得ない。愛への不寛容さ、それはこの国の改め難い伝統と因習なのであろうか。
 作中人物の二人の行く末に深い同情を示しているのは作者である漱石のみである。加えるに若干の漱石の読者たちを数えても良いのかもしれない。しかし彼らにしたところで、何ゆえに彼らの愛がかかる周囲の同情を欠いて孤立させられなければならないのか、無機的とも云うべき社会の悪意に囲繞されなければならないのかと問うことは、そもそもあっただろうか。そもそも君たちは、ただ漱石と云う名を有難るばかりで、彼の描くものは何でも先験的に同情に価すると思い込んではいなかったか。 
 漱石の『それから』は有名な小説だから、紹介文めいたことは書かない。今回読み直して、気づいた点だけを書いておく。代助たち不義者!二人の行動が小説内の世界では、如何なる同情心をも得ない理由と関係があると思うから書いておく。
 ひとつは代助の高等遊民優位論。つまりパンのために働く労働は卑しいと云う考え方である。彼はこの考え方ゆえに小説の最後で手酷い復讐を受けるであろう。 
 二つ目は、主人公の代助の設定が明治期ブルジョワの放蕩息子であり、シェイクスピアは知らず、ゲーテのウェルテルやジッドのジェロームのような、近代的な純粋系のインテリではないこともあるあだろう。愛と性欲は彼のなかでは見事に分離していて、彼は茶屋遊びに相当の金を費やしたらしきことが小説のなかにニ三カ処書かれている。つまり遊び女には不自由していないのである。お金持ちの息子だから。加えてこの時代に於いて三十にもなる程だから、十分に大人びていて世俗慣れしている。そしてそういう彼だからこそ、ラストの顛末を追う過程で、如何なる犠牲をも覚悟のうえで、友人の細君を奪って自らの心情のままに生きようとする唐突な決意とその純情と、この時代に於ける中年男の純粋さが読むに堪えないほど辛いのである。
 世慣れた彼にしては逡巡を重ねるごとに打つ手は有効性を欠き、反って相手方に手段を講じさせる余裕を与えることになる。全てを告白し、自若として責任を引き請け、あらゆる断罪の全てを受け入れるつもりでいるのに、与えられた結末は余りにも無残であった。男の無私さと純情さの芽生えに対するこれが報いと云うのでもあろうか。小説の最後の方で生きる手立てを失ったこの男は電車に乗って宛てもなく「職業」を探しに行くのだが、世界がぐるぐる回り始めて、精神的には赤信号が灯る。おそらく責任に拉がれて狂気の縁まで追い込まれているのである。何という歴史であり社会であろうか。
 他方、彼の純愛を奉げた当の相手方である三千代はどうかと云えば、ももととから丈夫でない身体が産褥後の歳月と徒労感とストレスゆえに弱ってこの期に及んで二三日寝込んでいると云う。しかも伝聞のみが伝えられて三千代病状を確かめたくても、病人を治すまでは夫の責務の範疇であるなどと理屈の解らない強弁的理由によって非情にも隔離される。手の込んだ口実である。愛情のない夫が最後の復讐に出ていることは、彼が代助の実家あてに書いたスキャンダルめいた長文の告発状の存在によっても次第に明かになるだろう。復讐が激情とと云う形をとらず、物質的な等価物と折り合いを見せようと云う不埒な企みが、それゆえにこそ醜い!平岡と云う人物は『それから』以前に於いては等価物を見出せない人物であった。(僅かに『明暗』のなかに出てくる小林なる人物が、あるいは平岡の末裔の一人なのかもしれない。)
 代助が平岡の悪意に気が付いたときは既に遅かった。そこのところはこう書かれている。

「『あっ、解った。三千代さんの死骸だけ僕に見せるつもりなんだ。それは酷い。それは残酷だ』
 代助は洋卓の縁を回って、平岡に近づいた。右の手で平岡の背広の肩を押さえて、前後に揺すりながら、
『酷い、酷い』と云った。」

 平岡は新聞記者だから、細君を譲渡する代わりにスキャンダルで譲渡金をせしめようとしているのである。つまり『ロメオとジュリエット』や『若きヴェルテルの悩み』のような古典期の牧歌的な時代とは異なって、如何なる純愛やもめごとも、それがこと換金価値がある社会に於いては利用され悪用されうる、そういう時代に生きていることを、決して声高に激高することなく、冷静で非情なタッチで描き出しているのである。
 愛や人となりの倫理に対してかほども敬意を払わない社会の無残さを描き出した漱石の無情について、そのリアリズムについて、わたくしたちは再考し、もっと評価すべきだろう。
 
 三番目は三千代と云うヒロイン像のことについてである。『それから』を今回読み直しながら思ったのは、『三四郎』や『草枕』に描かれた、漱石の理想形のヒロイン像とは対照的な位置にあることである。
 三千代は近代小説のヒロインとして魅力的に描かれているだろうか。たまに行間の端々に所作が美しいと書かれることはあっても際立った美人のようではない。加えて生活の不如意さからくる容貌の衰えは明らかで、所謂読者の憧れを引き出す女性像のようには描かれていない。生活感に疲れた感じが何やら夢二描くところの薄幸の美人に似ていなくもないが。つまり、情熱を賭けても悔いないと云うような描き方はされていないのである。愛が霊感であるとか熱情であるとか、そういうものに少しも似ていないと云うことが、『それから』の際立った特徴である。
 ところで前作『三四郎』には、愛とは、相手を可愛そうに思うその心だと云う有名な定義があるが、実際には『三四郎』で持ち出された愛の定義がそのまま、『それから』の三千代像として描き出されているのである。
 おそらく、平岡三千代こそ漱石によって描かれた記憶に残る女性像のひとりであることは間違いないだろう。実際にそういう境遇に置かれたら自分もそう感じてしまうだろうな、と云う風に描かれてある。しかも『こころ』や『門』のヒロインとは違って、十分に明晰であるし、自分に与えられた運命の受容に於いても自覚的である。ひたすら受け身な生き方を強いられた明治期の女性ゆえにその理のままに生きて、最後に清冽なほどの暗い情念の焔と純愛が迸る、そういう生き方が出来たと云うことは、あるいは漱石は書いていないことであるが、彼女の死期が間近いこともあるのかもしれない。
 漱石の悪意ある小説『それから』は、そんな狂気の世界の境界線の五線譜を頼りなく生きる二人のおたまじゃくしの影を、無残にも煉獄の鉄格子ごとに遠く近く隔てられ、時代の重圧に押し潰されていくセピアの影を放置したまま残酷に唐突に終わる。唐突に終わる断絶感、日本近代文学がこれほど怖ろしい小説の書き手を得たことは、今更ながらに希有なことであった、と云わざるを得ない。
 今回は、夏目漱石の純情に脱帽いたしました。