アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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安倍晋三氏の四季 アリアドネ・アーカイブスより

安倍晋三氏の四季
2018-04-21 10:32:37
テーマ:政治と経済


 おともだち内閣、おともだち人事、おともだち外交、と云うのであるから、そんなに人に好かれる人であるのなら、悪い人ではないのだろう(友達関係には利害を持ち込まないと云う西洋的な定義についての無理解もあるようですが、ここでは問わないことにしましょう)。昭恵夫人などの、一連の言動を見ていても、愚かであると云うよりは、利用された、お人好しの感じがしないでもない。お嬢さん育ちで、人が良すぎるのである。かといって、諸外国のように上流階級ならではの仕来りや教育、冷静にして華麗なな社交術、と云うものを小さい頃から身に付けさせるということは我が国の伝統にはないので、羽目を外して、良いときは良いのだが、一旦歯車が狂えば、誰もが手の平を返すように離れてしまって守っては遣れない、と云う運命の、安物の悲喜劇風の局面に陥らざるを得なくなる。毎日を泣き暮らしている由、可哀相だが致し方ないことである。
 晋三氏のことを、愚かな妻を制御できずに巻き込まれた、と云いうような人がいるが、これも違うと思う。森友学園と籠池氏の問題だけで、加計学園の問題がなければ、悪いのは昭恵夫人だけと云うことになって、気の毒なことになっていたと思う。昭恵夫人だけの咎と云うことにはならずに、モリカケ問題が再燃したことは、夫婦の平等性のために良かったと思う。
 元来より、夫婦は一体であって、奔放だと評される夫人の言動について夫婦間で話し合われたことは明瞭であって、夫人の独走、と云うのは考えずらい。もし二人の間に違いがるとすれば、夫人は、信じ易い性格であり、夫の言動を百パーセント信じて拡大してみせただけなのである。ただ、そのパフォーマンスが、第三者の目には、しばしば正確すぎる模写がパロディとして笑いをそそるように、人が良い故の過剰な言い逃れ劇、成し得たことの卑小さと結果としての深刻な悲劇風の仕立ての落差の大きさが笑いを誘いだす、などなどの関西風新喜劇風の仕立ての顛末を導いたに過ぎない。
 安倍政治の五年間と巷では云う、――しかし、長い年月が経ってみると、この時代は大きな転換期でもあったにもかかわらず彼の名前を記憶するものは後世、意外と少ないのかも知れない。内政外交面に於いても、派手なキャッチフレーズを掲げた割には実質的な成果に乏しく、右翼的であると揶揄されがちであったイデオロギーも、右翼ビジネスのレベルであり、さして危険でもなかったからである。
 ただ、安倍晋三氏、人柄は良くても、自らは未作為でありながら――当人の言うことを信ずれば!――そこに集う様々な人物の、未然作為と云う形での不明朗な作為を呼び寄せてしまうと云うこと、腐敗や特有の腐臭に引き寄せら得る生物界の事情があるように、そこに惹き寄せられた個々の人格を互恵的に高めることは決してなく、反って、人格の悪い面や粗暴で下品な面、ある種のエゴイズムに巣食う病理性を意識化し顕在化させ、現実のものにさせると云う、不思議な才能の持ち主だった、とは言えるだろう。つまり当人は絵にかいたように清廉潔白の君子であるのに、全体としてはこの上もなくダークなで虚無的な世界を、本人の主観的な良き意図を裏切るような形で出現させてしまう、と云う不可思議も不思議、摩訶不思議がこの世に存在するらしいのである。本人は限りなく透明に近いクリーンなのに、周囲に集まる人は限りなく虚無に近いダークなひと達であること、中心と周辺の非対称が鮮やかと云うよりは見事なのである!
 わたくしもまた、善良で清廉潔白を絵にかいたような晋三氏が言うのであるから、妻も私も関係することはなかった、と云うことを信じても良いと思う。ただ、内閣総理大臣としての自らの言動の範疇や定義を、丁稚や徒弟が小金をくすねた、と云うレベルまで狭め意味を限定し使用しているところに、自覚も足らないし、一個の人格としての素養の程度が図らずも意図せずして現れていて、哀れを誘うと云うか、一国のリーダーの人品や風格としては如何なものだろうか。

 モリカケ問題に関係していてもいなくてももつまらない人物である。