アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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潮の変わり目 アリアドネ・アーカイブスより

潮の変わり目
2018-04-14 23:58:06
テーマ:政治と経済

 
 議事堂前で再び三万人規模の集会があったようです。その後は、沈黙に抗議の意思悲潜めて、聴くところによると沢地久恵さんによるキャンドルデモ、戦争への想いを籠めて。水戸市では元総理、小泉純一郎が安倍三選阻止への意思表示を顕わにしました。一連の文書の改竄や隠蔽、そして国会や委員会等の言い逃れを通して、流石にこれは限度を超える破廉恥に、堪忍袋の緒が切れたのか、言葉の問題は大事である、と小泉は言いました。(そもそも安倍晋三を抜擢したのは小泉であったという経緯がありますのから、反省の弁を語って欲しかったと思います。この人は良い意味でも大雑把なので、大笊の安物買い、人柄を見抜くのが抜けるところがあるのかもしれません。)
 明らかに潮の眼が変わりつつあるようです。従来までは、政権支持の国民の選択意思は、消去法――ほかに適当な人がいない、と云うものでした。本当は、他に人がいないのではなく、わたくしは、もっとも政治家になってはいけない人が、事もあろうに政権を代表する人物になってしまった、結果として国民は選んでしまった、と云う思いが一貫して強くありました。それは金権などにまみれた田中角栄などとは次元の違った政治家のタイプだったのです。
 前にも言ったことですが、この人を嘘つきと云うのは正確ではないのです。田中角栄やその他の利権型の政治家が言い逃れをするために嘘も方便も吐きましたが、嘘が嘘である所以の言葉の表裏を無意識のうちに当人たちは理解していたと思います。安倍晋三型の政治家の特徴は、ボーダレス社会を生きる固有の特性として、嘘も吐き続ければそのうち「真実」になる、嘘と本当の概念が曖昧になり嘘を真と信じるようになる、つまり嘘を信念をもって白昼堂々と真顔で吐く、と云うところに「新鮮味!」があったのです。
 この比較は嘘つきと偽善者の違いにも適用されます。嘘をそれと知って吐くのが嘘つきですが、嘘であることを意識せずに説き続けるのが偽善者だと世間ではされています。嘘つきはどこか良心の呵責の故か迫力に欠けるところがありますが、偽善者は嘘を信じ押しとおさせるだけの迫力があります。怖いことです。(このタイプの人間像は、話題の前金融庁長官・佐川宣寿にしても前愛媛県知事・加戸守行にしても、左85度に首を傾ける姿勢癖がありますので注目して見ていただけるとおもしろいと思います。)
 それはしつこく何度も言うようですが、わたくしはかねてより政策や政治理念、具体的な施策を問題にしているのではなく、政治家としての資質、その人格の背後に暗い影が見え隠れれしている陰気さが気になっていました。その見え隠れする不吉な影とは、畢竟、言葉の問題、言葉に対する彼の考え方、言葉への軽蔑と蔑視観を通じて、本来言葉によってしか成り立たない民主主義と立憲主義への大いなる挑戦、かかる人類の資産とも云えるシステムに対する最大級の軽蔑が隠されてあるのを感じないわけにはいきませんでした。
 その彼が、皮肉なことに、蔑視し軽蔑を隠さなかった言葉の問題で躓いて、日々答弁の場に立たされ額に皺をにじませる、と云うのも因縁深い話です。
 昭恵夫人の言動を様々に言う意見もありますが、一心同体だとわたくしは見做してきました。昭恵氏は、「忖度」して彼の想いをカリカチュアと見まがうまでに拡大してみせたにすぎません。つまり昭恵夫人とは拡大鏡でありプロバガンダの拡声器でありました。昭恵夫人の愚かを言うなら、五十歩百歩のところであり、意図的ではなかったものの、籠池氏の褒め殺しにも似た技法は、潜在的な問題を効きすぎる過剰演技をとおしてパロディ化してみせたのです。余りにも似すぎた似顔絵、余りにも誇張されたリアルな肖像画は本人に不快感を与えると言いますが、晋三氏と籠池氏との関係がこの関係でした。
 一連の騒動の裏ではひとりの老政治家が舞台を去っていきました。鴻池氏です。森友問題の発端も、彼の秘書の手になると云う、陳情メモ記録の開示から始まりました。森友問題に係っていたか否かの事実問題としての当否よりも、噂に登ること自体を潔しとせず、自分に徳がないからだと、政治家としての限界を開陳してみせました。政治家としての姿勢には賛否があると思いますが、彼の言動を通じて二院制の意義を教えられたのも確かです。
 意思表示が、多数決や民意を問うと云う形でも往々にして誤りを犯すものであること、それを防ぐ手立てとして、なるべく時間をかけて論点を複数の視点に晒しつつ、観点をずらしながら、熟慮し配慮し修正する暇を審議の機会として与え続ける、民主主義は手間も暇もかかるシステムであるとは、よく言われていることです。かかる冗長性のシステムが効率性や迅速性の名に於いて、規制緩和に身を隠した依怙贔屓の論理の名に於いて、岩盤規制を穿つと云う勇ましくも高尚で破廉恥なる名目に於いて、裁かれようとしているのです。