アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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動物の自然、人間の自然――嘘を言うと云うこと アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
 忖度 とはなんぞや?と云う論議に関して、私的言語と云う考え方に賛同をいただきましたが、そこまで言うのは言いすぎて、正しくは、言語の私的使用、と云う範囲に留めるべきでしょう。この話題はまた別の機会に。
 今回は、もっと分かりやすく、普段我々にも経験がないとは言えない、嘘を吐くと云うこと、――嘘を云うと云う行為がどういう意味で自然、不自然であるのか、動物界の自然、人間界の自然と云う観点を踏まえて考えてみたいと思います。
 
 自民党は、現在籠池氏の偽証罪告発の準備をしているようですが、籠池氏のような民間人の嘘と、内閣総理だ人の職にあるものの嘘とでは意味が違うと思います。
 籠池氏の場合は、三つの工事予算書などの存在や百万円渡す渡さないの問題で偽証を証明したいようですが、後者は民事の要素が大きく、それも領収書等の物的存在の「偽造」であるならばともかく、――郵便局の訂正印があるわけですから、金額を振り込んだのが事務員か籠池氏の妻であったか、と云う針小棒大に類する議論です。思いついたことは何でも遣ってみるということが現在(いま)の自民党には必要だと思われますので、遣ってみたらよいと思います。
 いわゆる、籠池氏の偽証と称するものについても、三つの工事請負書の存在についても、籠池氏の事情に限定すれば法に触れることはあっても、彼の事情に得するものがあったからです。現実的に彼の行動が許されるか否かと云う問題とは別に、生きていくためにエゴイズムに屈すると云う問題は、小さなことであれば心理的には誰もが理解しうる範疇です。つまり法的に合法化非合法化の問題とは別に、人間の心理としては、「自然である」と考えることも可能です。もちろん、この場合「自然である」には幾つかの保留事項と限定項が必要ですが。
 他方、安倍氏の言い分は、本人も云うように、昭恵氏や自分の名前を語ることで印篭のような役割を果たすようなことはない、と云っていますが、これは彼の言説を全面的に信用してよいと思います。
 つまり彼の場合は、籠池氏の場合にあった、殆ど動物的と云ってもいいような雄叫びや、ぎらぎらするような、欲得や、目的実現のためのエゴイズムと云う項目が欠けているのです。つまり何ものかをするための、何事かを実現するための嘘ではない。
 つまり晋三氏の場合は、もし彼が嘘を言っていたと仮定しても、何か物欲や己のぎらぎらするような欲望を果たすための手段ではない。何か、普段から彼の行いの中にある晴れない霧のようなものがあって、もし言葉の定義上それをいつわりの人生と名付けるならば、いつわりにあらゆる他者の容喙を許させない、と云う意味で嘘を言う。つまり、いつわりの人生を嘘と同義と考えるならば、嘘のために嘘を言う、と云うことになります。
 弱肉強食の自然界においては強いものが勝ち、生物界に限らずマキャベリズムの世界に於いては嘘も方便である。但し、かかる自然の論理も法的状態を恒常的な環境と考える近代の人間の世界では許されない、動物界の自然も人間界では不自然となる、と云うことは言えるでしょう。そうした保留事項を踏まえて言うならば、籠池氏の嘘は、動物界の嘘を人間の世界まで持ち込むことで法を犯し、人間の「自然」を裏切ることになる可能性がある、と云ってい良いでしょう。
 安倍晋三氏の嘘は――細やかな嘘であると弁護する評論家や橋下元大阪府知事のような方々が沢山いらっしゃいますが――嘘のために嘘を吐くと云う、これは人間でなければできない、極めて卓越した人間的な行為である、と云うことが出来るのです。
 
 分かりやすく言えば、籠池氏の嘘は動物なみ(正確に言えば人間が考える「動物」とは人間以下であると云うこと、古い喩えの言い方に犬畜生と在りますが、その感じ)。晋三氏の嘘は――もしあるとして――人間にしかできない、人間に固有の嘘である、実存としての嘘である、と云うことが出来るでしょう。なぜなら動物であれば、嘘と云う概念がそもそも存在しないし、当然、嘘のための嘘と云う行為もあり得ないからです。
 国会と云う公共的言論の府で、ことばによって立つ言葉の専門職としての政治家が、嘘を吐くと云う行為について議論するのであれば、是非、言葉に関する卓越した能力を、人間の自然と云うことを踏まえて議論していただきたいと思います。嘘の中でも虚偽罪と云う厳密な意味での言葉に関わる問題を論議するのであれば。
 まとめておきますと、籠池氏の嘘は――もしあったと蓋然性の範疇で仮定して――動物界の論理を人間界に持ち込んで結果として「不自然」になったもの。晋三氏の場合の嘘は――もしあったと仮定して――嘘のために嘘を吐く、人間に固有の嘘、人間にしかできない実存的行為としての虚偽、哲学的にみれば「人間であることの不自然」が際立つ形で帰結されたものである、と云うことになるでしょう。
 かかる両界の不自然、皆さんはどちらが罪が重いと考えられますか。
 
 ことばよりも実行力、と云うのが晋三氏が繰り返す言葉のフレーズです。なにも行為や実行力と云う高度な問題や人間的な課題を期待しているわけではないのです。行為や実行力と云う一歩点前の、それらを踏まえてある、保証し担保する人間の「ことば」について語っていただきたいのです。
 と云うのも、わたくしたちは、かれらの言葉に関する卓越した能力、ことばの専門職としての彼の高い能力に、ある意味では税金を支払っているとも云えるわけですから。支払われている税金に見合った言語能力を発揮していただきたいものです。