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もう一つの『それから』――漱石の『彼岸過迄』について アリアドネ・アーカイブスより

もう一つの『それから』――漱石の『彼岸過迄』について
2018-04-16 10:38:58
テーマ:文学と思想


 『彼岸過迄』とは、彼岸過ぎころまでには書き終える連載小説、と云う意味である。また作者である漱石の言によれば、外の世界から内側の世界へ、また内面から外部の世界へ、と云う構成にしたいとも言っている。一応は、そのようになっている。
 『彼岸過迄』は漱石四十五歳頃の作品であるが、内容は、ある種の明治のモラトリアム期にある青年の旅立ちの話しである。そこには世間と脱俗、放浪と定住、愛と死などの人生の断層が様々に描かれる。中年の作家にしては内容が若々しいのは、漱石の資質でもあったろうし、当時の新聞小説に期待された役割、――人生の案内書としても読まれていた、と云うこともあっただろう。とりわけ、漱石には知識人としてそういう側面が期待されていたであろう。
 ただ、近代小説としての結構としては様々な評価があるだろうけれども、エピソードとしては印象深いものが多々ある。ます主人公である田口敬太郎であるが、狂言回しとしてさしたる役割は果たさないが、これだけの内容を聴きだせるインタヴィユアーとしての能力は、やがて『こころ』に語り手まで発展するものだろう。
 同じ下宿屋で隣人となる年かさの「人生の先輩」たる森本は、下宿代を滞納して大陸を放浪する運命が暗示されているが、庶民と云うよりも、近代が生み出したエグザイル、バカボンンド、流民と云ういでたちである。この人物は幾つかの助言を与えるが、この小説には最後まで絡んでこない、未発達の登場人物である。漱石が描いた中産階級知識人層と云う世界から見れば、それを相対化する世界を代表する人物で、『それから』の平岡や『明暗』の津田と同一人種と云うところだろう。
 同じく外の世界を代表する人物としては田口がいる。終始自分の人生の時間を忙しくしておくことに満足感を見出す世俗の人と云う設定になっている。物語も彼に就職の伝手を求て始まる、探偵小説擬きの設定から始まるのであるから、これが漱石の言う、外の世界の代表者であることは間違いない。(同様に後で出てくる、高等遊民を自称する松本は内の世界を代表する道案内人と云うことになる。)
  敬太郎の友人であり、ある意味では意味上の主人公・須永市蔵は母とその弟、市蔵にとっては叔父にあたる松本、それぞれに江戸の文人の雰囲気を漂わせ、とくに松本は自らを高等遊民と称するのであるから、『それから』の後身である。それからの代助が、世間と折り合い家族を盛ったらと云う想定で、円満家の代助と云ったら言い過ぎになるだろうか。ところがこの人物はとても大事な役割を期待されていて、自らの青年期アイデンティティの形成に明らかに失敗した感のある須永市蔵を唯一助言できる立場にあり、さらには須永の出生にまつわる話をして聞かせる有徳の人であることが明らかになる。
 また彼は、雨の日には人に合わないことを不文律としており、その理由を通して、読者は無垢なるものの死を経験することになるだろう。『彼岸過迄』を読むものは、この幼子の早世する場面をおそらく涙なしには読むことができないだろう。それだけ印象深く書けている理由は、実際に漱石がこの小説を書く直前に娘の雛子を亡くしているからだと云われている。こういう場面を読むと、小説の出来不出来であるとか、人生の内とか外とかの問題はどうでもよくなる。『硝子戸のなか』などの名随筆家を彷彿とさせる漱石の独壇場とも云うべき名文で、彼の本領はむしろこの面にあったのかも知れない。静謐で、しみじみとした抒情溢れる場面である。このエピソードがあるだけでも、記憶されてよい漱石の名作である。
 かかる極限としての美しきもののあとには、愛と死の告白の物語が続く。読者はここで初めて須永市蔵と田口千代子の関係を知る。漱石の筆致では、千代子が新しい明治の時代を象徴する感情を解放する形の女として描かれ、その奔放な愛の姿ゆえに直視に耐えず逡巡を繰り返すハムレット型の須永の両者を描くのであるが、二人の誕生の時より筒井筒の関係にある二人の関係が、実際には結婚と云う形をとるに従って行き詰ったとき、千代子は果敢にも須永を卑怯者呼ばわりをして決起を促す。須永はそでれも煮え切らずに、旅に出てようやくにして自分を取り戻す。この二人の関係がどうなるか暗示だけでも書いていないので分からないのだが、この少し前に、須永は自分の出生の秘密とも云うべき、彼のこれまでの生涯の中で何ゆえにか誰もが教えてはくれなかった秘密を松本の口から聞き出す。彼の出生の秘密は実存の翳りとまで言えるほど暗い影を落としていたのだが、それは言葉で明示化されることで、違った展開を予想させるに違いない。そこまで書いてこの小説は終わっている。
 
 やはり上手く書けているのは筒井筒の関係にある須永と千代子である。千代子は果敢に行動すると云う意味で『それから』の、ある意味での進化態である。彼女が体現しているのは、明治の新しい女と云うよりも、須永の眼に映じた西洋そのものなのである。それは彼女が西洋かぶれをしていると云うことを意味しない。当時の明治期の青年たちの眼に映じた西洋風のものそのものの象徴として描かれている。だから、さして派手でもなく良識ある良家の子女としか描かれていない彼女が、何ゆえにか「眩しく」映ずるのである。
 『それから』の平岡三千代は燻し銀のような沈痛な美を湛えたヒロインであるが、その彼女からナイーブさはそのままに、自由闊達な雰囲気を与えたらこうなるだろうと云う風に描かれたのが田口千代子なのである。(名前の類似に注目。)
 『彼岸過迄』にほのぼのとした明かりが見えるのは、第一に彼女のこうした性格であり、もう一つは大人びた代助とも云える松本のどっしりとした存在がある。
 『彼岸過迄』は、誰もが言わないことだが、もう一つの『それから』である。