アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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わたしの言葉についての感想 アリアドネ・アーカイブスより

わたしの言葉についての感想
2014-02-05 19:13:50
テーマ:文学と思想

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 わたしなりの言語観についての感想を述べれば、次のようになるであろう。

・書記性言語――読まれることを前提として発達した言語。読まれるとは、文字で書かれると云う意味であり、通常わたしたちが「言語」の基に理解しいているもの。言語の「伝承」と云う観点からすると、その卓越性が理解できる。「記録」を通じて「現在」から「過去」が分岐し、「未来」と云う本来は実在しないものを現出すると云う意味で、幻想的概念であり、他方、人間的な有意味な言語に「時間」性を与える。書記性言語は、「有意味」性である限りにおいて何ほどか「論理」的である。書記性言語は、日常に供すると云う意味では実用的な言語であるが、同時に「概念」であり「時間」性を持つと云う意味で幻想的存在でもある。
 ここに「幻想」とは、少なくとも西洋的な意味概念としては実在と観念の間にある中間的な何者かである。そのなにものかを媒介性ととらえれば立派にヘーゲル的な言語であるし、媒介性を特に「特殊性」ととらえ返し、個別と普遍を繋ぐ制度的な言語と解すれば、実在との区別がなくなる、不思議に幻想的なカフカ的な世界と通底する。
 また「実在」と云う事も文字通り日本語の語感を信用していたら怪我をする。実在とはプラトンの場合イデアの事であるから、この世の出来事ではない。不可視の、この世のことに非ざる事どもを「実在」と強弁するギリシア時代以来の西洋の論理に、われわれは同意しかねるけれども、後発の東洋の悲しさは、たとえ航海士が誰もが公然とは口にできない狂人である可能性、重大な疑念があったにしても、彼に宇宙船地球号の舵取りを任せている以上、あたうる限り狂人の論理に肉薄しなければならない.。付き合いの深い友人が実は気違いであったと云う事が分かったからと云って、今更付き合いを免れる、と云うわけにはいかないのである。
 かく顕われざる、隠されてある「神」の中から悠久の西洋の歴史が始まる。顕われざる、隠されてある「真理」から悠久の西洋の始原が開始する。「真理」と云う同じ鍵穴の中から、神が、キリストが、そして近代自然科学が共通の脈絡の中から生まれてくる。
 自然科学的言語とは、書記性言語の極めて特殊化された一形態である。その特殊な言語観が西洋社会を数千年にわたって歴史的に特徴づけ、宇宙船地球号をリードしようと云うのである。初めに言葉ありきとするキリスト教こそ近代科学の母体でもあったと云う指摘は偶然ではないのである、有名なプロテスタンティズムの禁欲が資本主義の精神を生んだように。

・口承性言語――言語を書かれた言語のみに限定せず、時に「語り」と云う形式で人称性を超えると云う意味で、近代的な個人意識以前の古い言語の名残をとどめる。「語り」が必然的に「所作」を伴うと云う意味では、特に身体性言語として区分することもある。身体性言語とは、演劇や踊りのようなものを意味し、沈黙のマイムも、この場合身体性言語の範疇に入る。

・静態性言語と動態性言語
 通常の言語と呼ばれるものを、身体性言語の方から眺めると、書記性言語の特質がよくわかる。一般に物事を正確に理解するためには静止画像が良いのか動的画像が良いのかと云う議論である。精密に、細部を要素に分解して理解すると云う意味では、これが書記性言語の定義に近くなるであろう。ここに、細かく分割された精巧な微分的知を再び集めると云う行為、今度はそれを逆方向に、つまり積分的な集積行為によって完全な復元がなされるか否かについては意見が分かれるであろう。ここから云えるのは、書記性言語とは物事を静止画像によってみる顕微鏡的な知の微分的方向の精密知と、積分的方向の全体知と云う双方向の知の総合的評価を目指している、と云う事情が理解できる。
 他方、身体性言語を始めとする書記性言語以外の幾分プリミティヴな、物事を動態によって理解する知とは、自然科学的な知をモデルとした言語で、果たして生命のような存在が認識可能であるかと云う問いを投げかけているのだ、と云う事が理解できる。



 この文章を書いていたらTVでは7時半のクローズアップ現代で「ユマニチュード」について紹介していた。ユマニチュードとは、「患者」を医療の観察対象とするのではなく、母親が言語以前の乳児と人間的な関係を樹立するように、言語を失った認知症の方々に、この言語以前の方法を適用しようと云う取り組みであるらしい。
 医学的言語こそある意味で微分的精密知の極地であり、積分的所見が問われる領域である。認知症と云う、とりわけ言語が失われていく症状の中で、医療行為そのものが根元から切り崩されるような状況の中で、いわゆる医学的言語以前に、どのような言語の世界風景が可能かと云う問いが成立する。実務の世界では、初期ヴィトゲンシュタインのように、言語の非力や限界を言い立てるだけではすまないのである。
 ここでは、見る、見つめ返す、接触する、反応をリアクションとして返してくる、書記や口承性言語以前の言語的な所作的な行為の中から、「あなたは人間ですよ」と、沈黙の言語を介して問いかけるのである。沈黙の問いかけの中から、言語の有意味性が、言語の断片が甦って来る。始原における言語の発生の現場に立ち会うかのような稀有な経験をわれわれに与える。
 自然科学的な知に対する、所作的言語をはじめとする言語観の変革は、芸術の領域はもとより、とりわけ医療や介護の領域で高い親和性を感じさせる手法であるように思われる。


 言語とは、意味形成と意味文節作用を通じて世界が現れてくるあり方であり、後天的に与えられる技術の様なものとは区別される。単なる記号や象徴の様なものとは異なる。発生的には人間は言語に先立つが、概念としては、そこで人間が人間になると云う意味では先験的である、と云う彼らの言い分は認めなければなるまい。