アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

芸術は必要か アリアドネ・アーカイブスより

芸術は必要か
2019-07-12 13:34:37
テーマ:文学と思想


 

 人は必要不可欠なこの問いを、人生のどの段階かでは応えておかなければなりません。この問いかけを自らに掛ける過程で、人が人間になると云う固有の出来事も課題にあがってくるのです。
 さて、通常今まで論議されてきたものの大半は、実人生と比較して、その機能、有用性などを問うもの。あるいは、反転して、芸術には独自の価値、独自的機能がある、とするもの。

 どちらも正しい設問の仕方であると思いますが、芸術が、ではなく、芸術の前で実存がどのように変化するかを考えてみましょう。
 謙ることなく言えば、例えば小説を読むという行為は、自分の内的な構造に併せて文字を読む、と云うことなのです。内面の構造が薄手であれば、小説はそのようにみえますし、あるいはそもそも読み取ることができません。
 つまり、芸術という行為のなかで小説を読むと云う行為に限定していても、文字列を読むとは辿る、目で追うとは、自分自身を追う、と云うことなのです。追うに値する自分自身がなければ、芸術を経験するという意識経験や行為はそもそも成立しません。

 芸術を考える場合は、効用や効能などと云うことを忘れてしまうことでしょう。また、実現実では満たされることのない、第二の人生経験、ある種の補償作用のようなものが大事な機能として確かにありますが、この点も忘れましょう。
 端的に云えることは、芸術の時間経験を生きていると云うことは、芸術を必要としない人には見ることも想像することもできない出来事であるのに対して、芸術を生きている人間にとってはそうでない人々の生き様を概略、想像することができる、と云う点なのです。ここには不可逆性があります。私は細々とした人生経験のことを言っているわけではありません。

 私はまた物事の良し悪し優劣を言っているのでもなく、時間を経験するという行為を境に、意識経験の非対称性の問題に言及しているにすぎません。少なくとも、一方からは見ることができるのに、反対側からは閉ざされている、見ることはおろか、単に世界が存在することを想像することすらできないのです。意識経験の場で想像できないとは、単に存在しないことと等しいのです。だから、確信を持った人たちが言うように、芸術は存在しない、芸術は無意味だと云うことに確かになるのです。

 同じ人生、たった一度の人生、双方向の人生が見えてこその人生だとは思いませんか。勿体ないと思います。


 こう云う考え方をしきりにするようになったのは六十過ぎてからでした。六十歳を迎えたとき、事実上全三幕の茶番劇全篇は溜息吐息のうちに幕を下ろし、あとはアンコールのような一曲か二曲かを、カーテンの影から主役に阿って裏声で歌えばよい、などと、場末の旅芸人並みに安易に考えていたのです。
 しかしご破算に願いましては・・・・・、の後には実のところ豊饒な時間が控えておりました。浅く見積もり過ぎていたのです。いまから考えますと、六十歳で終わっていれば、私の人生とは何だったのだろうか、と云うことになっていたという気が今にして感じます。
 今まで自分を規制し、規定していたもの、人生や社会が課した諸条件をご破算にして、今度は社会の方に合わせていただこうと考えたのです。そう考えた時に、実際はそのための準備をしてきていた自分に気が付きました。それは慎ましいほどのひたむきですらある過去のの映像でした。健気なほどの秘められた静かな闘志、強靭とも云える人間的な営為の記憶でもありました。優柔不断!捧腹絶倒!七転八倒!の小心翼々の人生だったとはいえ、少しだけ知恵が足りた場面もあったようなのです。(社会的な条件を一旦ご破算にするという合理的な行動は、わが国においては固有の伝統があり、西行や兼好などが取った「出家」と云う方法がありました。仏の前には誰しも平等ですから、「出家する」という行為において、この世の社会的条件を超えることができると考えたのです。「出家」と云う手段を取らずとも、「隠居」と云う形で普通人が取り得た方法もライフサイクルの形として認知されていたようです。昔の日本人は賢かったと思いますよ。)

 芸術とは、長年、無味乾燥とも思える寄る辺なさからの防御壁、あるいは逃避行のようなものだと思っていました。社会的な諸条件をご破算にするとは、自分を自由な精神として理解する、と云うことでした。自分の自由さを理解したとき、するするともつれた縄が解けるように、芸術的言語が、迸る泉のように、湧き出してまいりました。他方、絶対性の表情を標榜していたかに見えた人生の仮面が少しだけ歪んでずれて、仮面が覆い隠すことのできなかった下ぶくれの頬が顎に連続する、そのあたりの筋肉を動かす微妙な所作に躊躇いが浮かぶのを見て私は初めてたじろぐ、と云う経験を致しました。つまり絶対的だと思われていたものがそうでもないようなのです。この世に絶対的なものはなかったのです。
 
 私たち人間の内部には、無限的ともいえるキャパシティが秘められており、その都度ごとの人生に於いてはその部分ごとの成就と部分的な実現が図られます。それをして人は成功だ失敗だ、などと大騒ぎして一喜一憂、かしましくも様々に小鳥のようにはしゃぎ立ててかくは云うのです。しかし元々成功や失敗などは、無限概念のなかのごく限られた世界における特殊な出来事の足し算的総和に過ぎなかったのです。
 芸術は、仮にと云う形式でその特殊性の殻を打ち破り、所詮一期一場の想念や幻想にすぎないとしても、内面世界の全構造を実存経験として与えるのです。以前、わたしは「人」と「人間」を区別しましたが、人とは偶然的なこの世の在り方です。その偶然的な在り方を限定のない、無限的ともいえる総体性の夢の枠踏みのなかに於いて考える時に、人が固有な「人間となる」と云う究極の経験が成立するのです。
 
 「人」とは普通名詞ですが、「人間」とは固有なもの、正確に言えば「もの」ではなく、人が固有な「人間となる」と云う「過程」なのです。
 人には性差がありますが、人間には男女と云う性差は殆ど問題になりません。

 あと、どの程度この世にあって生きるのか分かりませんが、何時かは言っておかなければならないと思ったことのひとつを今日は書いてみました。
 終わってみて言えることは、ブログを書いた六十代とは素晴らしい時代でした。