アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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江藤淳の死――『妻と私』 アリアドネ・アーカイブスより

江藤淳の死――『妻と私』
2015-06-15 17:10:45
テーマ:文学と思想


・ 『妻と私』は、江藤淳の妻をみおくる闘病日誌である。
 日々、人は膨大な人の死の量を無機的な数値に於いて経験している。違うのは他ならぬ生活の伴侶の上にこの未聞のドラマが生じたこと、抜き差しならぬ舞台にせり出されたのはこれも他ならぬこの自分であること、そしてその「自分」が高名な文芸批評家、江藤淳であることである。

 妻の異常は年の初めに本人には秘密のまま顕在化し、半年の命と宣告されたのちも正確に、と云うか、幾らか永らえて歳の瀬の終わりごろに一切は瓦解かするかのように終息する。
 ここには死の看取りと云う観念には程遠い、剥き出しの死があるばかりである。

 なにが憐れといって、それが一世を風靡した江藤淳であるからこそ、堪えられないのである。
 江藤淳は、『夏目漱石』でデビューしたときのマニフェストどおり、一人で孤独に堪え、ひとりで夫妻の間にあったこの世の生存と云う時間が緩慢な死に向かって、最初はゆっくりと、それから沈没する直前の船の船窓のように、大きく水平線が傾斜していくのをなす術もなく、死の水圧に押し戻されながら、自らも傷つき、最後は討死に近いような形で、もうひとつの不治の病に取り込まれてしまう。江藤が、それから生きた時間は妻の死を看取ってから僅かに、一年にも満たない期間に過ぎなかった。しかも死因は意外にも自殺であった。
 いまから十六年ほども前のむかしのことである。

 アメリカから帰国したのちは人が変わったように父性の復権を唱え、治者の政治学を唱えたその人にして、人生の幕引きは意外なものがあった。
 意外と脆かったな、と不謹慎にも独り言ちた。同時によくやったよ!と云ってもあげたかった。江藤淳の素晴らしさは、第二次大戦はこの人のなかでは終わってはいない、と云うことだった。むつ子の魂百までとは云うものの、ひた向きな抵抗の意志、ひた向きな抵抗の持続は、敵ながら天晴れと言わしめるものがあった。

 ひとは経験によって豊かにも強くもなることが出来る。しかし追い越すことのできない絶対であるところの死の経験は一度限りのものであるがゆえに、経験に学ぶと云うことが出来ないのである。
 しかも死の経験は絶対の経験であるがゆえに、一人の人格の中でだけ生じる閉ざされた、他者の介在や助力が期待できない領域の経験であり、しかも確実性の強度の高さに於いて抜き差しならぬ緊張をはらんでいる、と云わなければならない。
 しかも死の経験が、個的な個人の上に生じる場合以上に残酷であるのは、自分の命と同等かそれ以上にかけがえのないとも思われた唯一同体の命に、自らの手で死と云う名前を命名しなければならない事態であろう。江藤淳に生じたのは、かかる事態である。

 江藤は年の初めに医師から、別室に呼ばれてどうしますかと問われる。死の宣告を自らが言わなばならない立場であると云う医者の言説の前にたじろぐ。共に戦うのかどうか、と云う意味である。結局、江藤は逡巡して考えた挙句に、自ら一人して闘うことを決意する。告知は致しません、と。
 この日から江藤の中に秘密が住み着いて妻を裏切り続けることになる。妻の肉体が妻の精神を裏切り続ける。裏切りの卑劣なドラマを、緩慢に進む手足の浮腫みや痺れとして日々見せつけられる苛烈な時間が、妻の死まで続くことになる。
 自らへの死の宣告であれば、江藤もこれほど脆くはなかったであろう。他者への過度の労り、「私は自分が弱いせいか、病人と見ると同情したくなる変な癖があるのです。」(『西ヨーロッパの旅』)と云う、文学のチャンピオンの一番弱いアキレス腱とも云える場所を突いて、死は攻撃を巧妙にも仕向けてきたのである。死は、江藤の最も防御の脆弱な部分、思いやりの優しい心と虚弱な肉体を狙い撃ちしてきたのである。
 死が残酷であるだけではなく、老練で老獪でもあると云うことは聴いて知っていたけれども、まざまざと不気味なその相貌を雲間に見せつけた瞬間だった。

 如何にして炊事が出来なくなるか。如何にして急須を注げなくなるか。如何にして茶碗を、そして箸を取り落とすようになるか。右の方から?、あるいは左の方から?如何にして麻痺が全身を、基本的には心臓から遠い方から覆い尽くしていくのか?そして、体温を奪い、茶色に変色していくのか。
 江藤の『妻と私』の記述は、妻の心肺停止を看取る医師の儀式めいた行為によって中断するまで無駄もなく進行する。そして彼によって記述される行為のいちいちが、看取る側が秘密を抱えることによって、いちいちの死に逝くものへの裏切りの行為となるのである。

 江藤は、妻を看取る時間のなかで、過去の様々を思い出す。プリンストン時代の出来事を思い出すのもこの時のことである。早コマ回しのように過去は脳裏に蘇ったのか。それについての詳細な記載はない。しかし過去の至福感の中で甘美な死の誘惑に晒されたのは事実だろう。
 理性は、現実の帰り道をしっかり求めていた。しかし無意識のレベルではどうだったろうか。妻の看取りと云う過酷で苛烈な作業の中で、彼はもう一つの不治の病を、すなわち敗血症を併発してしまう。病院と病室と云う閉ざされた空間の中で演じられる極限のドラマであったにしても、看取るものは文学界の寵児・江藤淳であり、彼を見守るものは優秀な基幹病院の医師団であったことを思うと、本当に江藤淳を臨床の場に放置すると云うことがあり得たのだろうか。なにか周囲の医師団や知人縁者の容喙を許さぬものがあったのではなかろうか。江藤淳は死なせるほかはない、そう思わせる厳粛なものが病室に垂れこめていたのではないのか。
 彼は書いている。
「ついにここまで来てしまったよ、慶子、と脳裏に浮かんだ家内の幻影に呼び掛けたには、多分その頃だったに違いない。いつも一緒にいるということは、ここまで付いて来ると云うことだったのだ。君が逝くまでは一緒にいる。逝ってしまったら日常性の時間に戻り、実務を取りしきる、そんなことが可能だと思っていた私は、何と愚かで。畏れを知らず、生と死との厳粛な境界に対して不遜だったのだろう。」(本文)

 すでに勝敗が決したものに対して、それを概念化し一般化して論じることは礼を失する行為であろう。
 江藤淳の生き来った軌跡を見渡すと、妙にリアリスティックな物言いをし乍ら、この世に生きるとは所詮方便であり、波間の底に本当のものが浮き上がって来るのを待ち構えた待機の時間であった。そていま、死は絶対の相貌をもって、生き残ったものへの負い目として彼に語り掛けるのである。
 死に逝くもの、死のかげの谷にあるもの、そして死を祭儀として見送るもの、ここでも『こころ』に描かれた死生観は変容化を施されて静かに再現される、死の円環は突破されることなく不気味にウロボロスの円環を閉じようとしている。
 ここでは死のかげの谷にあるものと、死を祭儀として見送るものが同一の人間としてある。『妻と私』は、自らの死に手向けられた弔辞の破片である。