アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

文体とアジテーション、あるいは平叙文との違い アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 常々、文章を書くときは客観的に、冷静に書くべきものだとは心得ていますが、逸脱を許容している場面が二つほどあります。一つは、具体的な状況の中におかれた自我が、一個の実存として、言葉を手段として、特化して使う場合です。わたくしの文章が時に口汚く、下品にも響くのはこうした局面で、アジテーションの文体の模倣であると思っています。(わたくしがこう云うことを言うのは、わたくしが書く文章の”下品さ”について一言弁解をしておく必要があると感じたためです。下品な対象について書いた文章が”下品”になるのは、よほどの達人か天才でもない限り免れないことでしょう。)
 
 
 これとは異なって、正反対の局面から云えることですが、言葉がコミュニケーションの手段を超えて、言葉が己自身の規則に従って、自らを展開すると見える局面があります。言語が言語自身をして言語自らが語る、極めてまれな例ですが、文学者の文章のなかに事例をみることができます。文体と称されてきたものです。
 古典の中で、例えば”祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。・・・”などは、その一例です。語ると云うよりも、何か歌うような感じ、自らの個性よりも言葉の秩序の波の上に乗せられて浮遊し振動する感じ、日本人はこれを謳いと関連づけていますが、能楽のおさらいの様式を、謡とも云います。
 文章と文体とは異なっているのです。後者は、文章がコミュニケーションの手段であることを場合によっては忘却して、言語の背後にあると通常は想定されている主体や主観、近代的自我と云ったものの影さへなく、時空を超えて、言語が自らが示現し語りだす局面です。
 こうした局面に遭遇するたびに、わたくしは言葉とは実在である、と思わざるを得ません。言葉とは実在につけられた仮の名ではなく、実在そのものだと云う気がしてなりません。演劇とは、こうした言語の特性に注目した技術だと思います。
 
 文体とは何かということを考えてきて、謳う文体としての言語という形で捉えてきましたが、謡の伝統からも予想されるように、神事に繋がる言語の折り目正しき素性は、高貴で高雅な雰囲気があります。シェイクスピアの演劇などでも、内容も台詞も少しも上品なものではなく、下品で卑俗な俗語も含まれているのに、やはりここでも、言葉自身が己自身を語ると見える局面があります。何か、話されていた言葉が微妙に転調していって、カタストロフィーの彼方の、静寂の厳粛さの中に余韻を曳いて、終わる、そうした感動を度々味わってきました。
 世阿弥シェイクスピアの演劇も、とても品があるものだと思います。
 
 アジテーションの文体は、むしろ品がないことを特性としています。文体が言語の属性の一つである意味伝達やコミュニケーションの手段を超えた超越論的な意味を特性にしていたのに対して、ここでは、とことん、手段であるあり方に徹しようとしているかにみえます。
 文体が、時と所を超えて普遍的な価値を失わないのに対して、アジテーションの文体は、固有な時と所のなかでしかあることができません。
 
 しかし、言語、という媒介項を間に挟んで、対極的な位置にあるかに見える二つの言葉のあり方も、直接的な言葉のあり方、――平叙文と云う言い方で通常は表現されていますが、――その平叙文に対しては、言葉の正確な伝達、という観点からはずれている、という意味では共通性があります。
 
 一言で纏めて言うならば、平叙文と云うものは、わたくしたちが日常を生きていくうえで欠くことのできない、感性、習慣、慣習的生活様式に基づいています。とりわけ意味やコミュニケーションの伝達手段として、ある程度の正確さが求められます(厳密な正確さを求めるなると論理学や数学になると思います。)あるは含意的黙示の事項や領域の広がりを前提としています。言語のあり方としては、静態的、であることを理想としている、と一応は云うことができます。
 
 アジテーションの文体と文体に共通するものは、言語の静態的なあり方を一部、踏み越える点にあるのだと思います。
 つまり言語を動態的なものとして了解していた、古層にある人類の記憶を、一部伝える様式である、と言えると思うのです。
 
 アジテーションの文体の例としては、最近ではオバマヒロシマスピーチなどが例に挙げられるでしょう。人類の理想を語り、実現性のあらゆる手段を欠いた空想の、非力とも云える言葉の連なりを否定することは可能ですが、それは先の述べた、アジテーションの文体が、それが語られた時と所の固有さに基づくものである、と云う先の見解と関わりがあるのです。
 時と所が異なれば、――つまり平静になって平常心で改めて言語と言語の繋がりとして観察してみると、殊更の内容があるとも思えないそのスピーチが、なにゆえにあれほどの感動を与えたのかという疑問の方にこそ、言葉が持つミステリアスな魅力の謎があると思うのです。
 
 しかしわたくしたちは、いつでもわたくしたちの能力のなかの固有なものの一つ、――想像力と云うものを使って、固有の時と所を再現し再構成し、感動を顕わにすることができるのです。先日テレビのある番組でケネディスピーチや悲劇的生涯の映像を見ながら感じたことでした。わたくしたちは文章ではなく文体の中で過去を生きることができます。言葉と文学にはそのような力があります。ここにいう文学とは、文芸復興という意味での、ぶン芸と云う言い方の方がよろしいでしょうか。
 わたくしはジャクリーヌ夫人とケネディ一家のことがとても好きになりました。