アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

藤沢令夫”プラトンの哲学” アリアドネ・アーカイブスより

藤沢令夫”プラトンの哲学”

テーマ:
 
藤沢令夫がこの本の序章にあてた名称は”グラウコスのように”。グラウコスはギリシャ神話の海神、プラトンの時代より凡そ二千年、毀誉褒貶相反する評価の中で、牡蠣や海藻やらが体中に巻きついて本体すらも見わけがつかなくなった、混乱した今日のプラトン哲学の現状を言い表した言葉である。

プラトンの哲学をめぐる多義な話題が論じられているが、印象に残ったのはイデア論をめぐる話題である。個物と普遍、イデア本体と分有の関係、個物が個物でありえるのは個物を超えた本質を分有するからであるのか、それともイデアの影を反映するからであるのか。

こう言ってもなかなかその違いが分かりにくいので、アリストテレス的言語を使った表現を用いればこのようになる。一般に何々は何々であると陳述する場合に、主語‐述語の叙述の方式ではどうしても主語の位置に個物を持って来ざるを得ないから、二元論的思考の枠組みを前提せざるをえない。そこで英語で言うデア‐イズの文形、すなわち、ここに何何がある、何何のイデアに似た何何がある、という風にすれば個物の陳述という文形を避けることができ、したがってイデア本体とイデアを分有した個物というギリシア時代以来の二元論を回避することができる。

卓見である。
しかしプラトンは、万物は流転するのヘラクライトス――だったか――の後に出てきた哲学者であったはずだ。魂の不滅性を信じているプラトンの場合、万物は流転してもらっては大変都合が悪い。そこでどうしても先述の、何何は何何である、とするデアルの論理が必要になる。しかしデアルの論理はそのままでは必然的に個物を主語ととして語る、主語‐述語の陳述形式に陥り、二元論に道を開いてしまうので都合が悪い、ということになるのだろう。

だからこの問題は、主語‐述語の陳述形式の妥当性以前に、実はデアルの実在の形式と、流転するのナルの形式の対立があったことになる。デアルの論理的矛盾に悩むよりも何故魂は不滅でなければならないのだろうか。これは哲学上の論理的要請であるから哲学的真理は不滅であって貰わねば飯の食い上げになるというなら別であるが、魂の不滅性などという言説は現代人の日常的感覚からは理解するのが大変困難である。

なぜ万物は流転してはならないのか、何物も確かなものは存在せず遷移・移転の過程にあり流転・変容するばかりというのではニヒリズムであり、哲学という学問が成立しないではないかと言われれば、それなら何故哲学はなくてはならないと考えるのだろうか。それでは大学の講座に”哲学”というものがあるので、学問としての哲学自体の存立の与件を問うことは無意味である、というようなものではないのか。

デアルとナル、実在の論理と生成の論理、この二つは対立関係にあるのだろうか。むしろ、古代ギリシア哲学史の前後関係を考えても実在の論理の成立の手前には生成の論理があったのではないのか。なんだそんなことかと言われるかもしれないが案外大事な問題かもしれない。西洋のキリスト教社会を底辺から根強く規定している実在論的な思考法は生成の概念を受け入れることは原理的に困難である。なぜなら無からは有は生じないがゆえに。

万物流転の法則すなわち生成の論理を認めることは実在的なものの考え方の否定に必ずしも繋がらないのではないのか。むしろ実在論が確保した、あるいは日々確保しつつある日常性成立の根拠を問い、日々新たに定義しなおす日常性の再定義という労苦の上にこそ、日々の実在性は守り抜かなければならないのではないのか、そのようなことを考えた。


藤沢令夫”プラトンの哲学” 1998年1月第一刷 岩波新書